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政策研修会

「 先 生 に 元 気 を 」

京都女子大学現代社会学部教授 野田正彰氏
 


2003年8月1日 16:00〜17:30
長野県庁 議会棟会議室


野田正彰氏のプロフィール
 
 京都女子大学現代社会学部教授、精神病理学者、評論家
   

 経歴

1944年 高知県生まれ
1969年 北海道大学医学部精神病理学専攻卒業
1977年 長浜赤十字病院精神科部長
1987年 神戸市外国語大学国際関係学科教授
1991年 京都造形芸術大学芸術学部教授(比較文明論)
2000年4月〜 京都女子大学現代社会学部教授
   
 著書 「狂気の起源を求めて−パプア・ニューギニア紀行」(1981年、中央公論社)「クライシス・コール−精神病者の事件は突発するか」(82年、毎日新聞社)「コンピュータ新人類の研究」(87年、文芸春秋)「生きがいシェアリング」(88年、中央公論社・新書)「喪の途上にて」(92年、岩波書店)「紊乱のロシア」(93年、小学館)「泡だつ妄想共同体」(93年、春秋社)「中年の発見」(94年、新潮社)「庭園に死す」(94年、春秋社)「災害救援」(95年、岩波書店・新書)「ミドルの転機」(95年、ダイヤモンド社)「わが街・東灘区森南町の人々」(96年、文芸春秋)「戦争と罪責」(98年、岩波書店)「聖ロシアの惑乱」(98年、小学館)「気分の社会のなかで」(99年、中央公論新社)「国家にやむ人びと」(2002年、中央公論新社)「犯罪と精神医療」(02年、岩波書店・現代文庫)「させられる教育」(02年、岩波書店)ほか

 ◆ 講演録のPDF形式はこちら(PDF形式:54KB/17p)
      

 3月まで、(長野県衛生部の)医療計画策定の委員をしておりました。京都から長野に来るときは、横揺れのひどい中央線の電車で、「もうこりごりだ。2度と長野へは来ない」と田中知事に今年3月頃だったかな、そう言って帰ったのですが、その後、今度は企画局から(長野県の中長期ビジョン策定の)委員を頼まれることになりました。教育については、(同じ委員会の座長である)宇沢弘文さん(東京大学名誉教授)と東京でお会いしたときに、宇沢さんから「ぜひ教育を声援しようじゃないか。」と言われていましたし、私は精神科医ですので教育そのものに直接関心がなかったんですけれど、教育の問題にここ4年ほどいろいろな形でずるずると関わりを持たざるを得なくなりました。

 私自身の教育との接点は、臨床医時代ですね、(滋賀県長浜)赤十字病院にいる時です。滋賀県の教育委員会から頼まれて、ずっと70年代の後半から、教員の患者さんのうつ状態や神経症からの復帰、治療などの仕事をやっておりました。
 うつ状態や神経症になった先生たちは、学校ですと早く見つかりますから、1、2ヶ月で良くなるんですけれど、学校現場へ帰そうとすると、校長さんは、「完全に良くなってから来てください」などと体裁のいいことを言いますが、実は「代替の講師が来ているから、学期の区切りまで直った先生には来てほしくない」と裏で思っていたりします。そういうことで、なかなか復帰させてもらえない。一般の民間の企業では、直接人事の人と話をすると理解されますが、教育畑は、そういうひどいところで、(学校と)ケンカをしながらやっておりました。

 80年代の半ばに海外の調査が多くなり、臨床から離れましたが、また90年代の後半に日の丸、君が代問題の相談を受けるようになって、その間、日本の教育が大きく変わっていることを知り、びっくりしました。私の認識も甘かったかもしれませんけれど、この問題について、新聞はあまりまともに報道していなかったような気がします。
 『させられる教育』(岩波書店)にも書いてありますけれども、最初に驚いたのは、京都市で音楽の先生が、君が代の伴奏のピアノを弾くように校長から強制されたという話です。その先生は、毎年、卒業式が近づくたびに校長から脅されていて、その脅しもだんだんひどくなり、「もし君が弾かないと、遠くで通うのが難しいところ(京都には通勤時間は90分以内という規定が一応ありますけれど、実質90分超えるところ)に転勤にさせられて、家庭はめちゃくちゃになるぞ」とか、「ここの校区の生徒はおとなしいけど、おっかない校区もあるぞ」とか、そういう人事異動のことまで含まれて言われて、だんだんその先生はピアノに向うと手が震えるという、そういう状態でありました。
 そんな話を聞いていると、「えっ、ここまで強制して進めているのか。」と思いまして、それからいろいろな先生方の相談にのるようになりました。
 そのいきさつは『させられる教育』にいくつか書いてありますけれども、今日はそういう事例をお話しさせてもらい、また、今も各地での学校の先生の告発の裁判にいろいろ関わっておりますが、そんな中で思うことを話させてもらいたいと思います。そして、なし崩し的にこういう状況をぼやいているだけではなくて、是非、長野県から違う動き、先生が元気で、本当にしたい教育をするんだと、できるんだということを発信していただきたいし、その応援を、是非していきたいと思って今日の講演をお引き受けしたわけです。

 まず、私の方から話の入り口のスケッチとして、現在の子どもたちの置かれている精神状況を、ちょっとお話をしてみたいと思います。

 現在の子どもの特異な問題点を挙げると、一つは人間関係が非常に希薄になっていることであろうといえると思います。なぜ希薄になっているかということですけれども、一つは、子ども達自身の人口構造の変化があります。
 私は以前、現在の日本の子ども達を、「一人っ子的二人っ子」という呼び方をしてきました。戦後の日本の人口はベビーブームまで、計画出産が非常にうまく成功して、子どもの数は、うまく分散しておりました。みんなが多産ではなく、一人っ子もいたし、二人っ子もいっぱいいたり、10人子までずっとこう分散しておりました。しかし、その後、急速に二人っ子および三人子に収斂(しゅうれん)されて、今、二人っ子になっております。
 こういった「一人っ子的二人っ子」の特性というのは、一つは、兄弟関係が少ないことから来る相互の人間関係の乏しさがあります。それからもう一つは、親が過剰に配慮するということで、大人っぽい子どもになるということがあります。
 いずれにしても、こういった人口構造からくる問題と、それからもう一つの、70年代の後半に入ってから豊かな社会になって、日本的情報化が進み始めたという問題とがちょうど車の両輪のようになって動いていると思います。

 日本の現在の子ども達は、小さい時から親からも先生からも、「仲良くするのよ!」っていわれて表面的に摩擦を回避して生きようとします。だから、表面的な適応性は非常に高いんですけれど、自分が小さい時から、それから何を感じているかということに気づいて、その感じたものを相手に伝えるとか、考えたものを相手に伝えるとかいうことが、ほとんどしていない。逆に言いますと、お友達がどう感じているのかについての想像力も少ないし、お友達が何を考えているかについても理解できない。
 子どもたちは摩擦を回避していますから、自分が本当に感じたことですとか、思ったことを伝えることはしませんし、次の瞬間には、それがいじめの材料になるんじゃないかという警戒の意識が働くことになります。表面的にお付き合いするということは、こういう情報については知っている、あるいは、はっきりは言わないけれど、考え方がだいたい一致しているとか、そういう形で対話をしているわけです。
 極端な言い方をすると、血液型の占いで、あなたはA型かB型かを確認しあっているようなものです。そういうことが会話かのように思っていて、内面が非常に空虚になっています。こういった子ども達の空虚さが、空虚になるほど、自己中心的な情報が心を埋めてしまいます。

 人間は、自分はこう感じたということを、気づき、感情として表すということで歴史を持ちます。小さい時から、こんな場面でこんな感じがしたということを認識しながら、そういった感情のストックの中で、今感じているものをもう1回位置づけて、言葉にして相手に伝えたりする。そこで、自分はこう感じているけれども、相手はそうじゃないということを言われて、あーそうか、自分の思い過ごしじゃないかというような修正の機会がありますけれど、今の子どもたちはそういうことは全然していないですね。
 そうなると内面が空虚です。そしてその空虚の中に情報社会のいろんな情報が入ってきて、その自分を中心として自分だけの世界を作っているという傾向がでてきます。社会的には摩擦を回避して適応しながら、一方では自分だけの世界を作るという、二つの世界を巧みに持っていて、テレビのチャンネルを変えるように、コードスイッチングしながら、二つの世界を生きるという面が強くなっていきました。

 高校生から大学に入っていく人たちをみますと、危機状況なかでふと漏らす話が、非常に自分中心の特殊な妄想と言っていいような、妄想様な観念を持っている子ども達が非常に多いです。
 ようするにファンタジーの世界に生きています。例えば、世間で「千と千尋の物語」が大変受けているというのも、そういう背景があるからだと思いますけど、自分を中心として世界が全部、何か一種の魔力的な力で解釈されるような、そういった世界をポッと作ってしまう。それと、摩擦を回避して人とうまくやっている世界というのが同時に生きている。こういった子ども達が非常に増えていっています。
 こういう子ども達が、前にお話したように70年代後半から日本が豊かになり、人口構造から見ても情報化の面からみても、どう考えてもこういう状況になるのは、わかっていたことであります。

 しかし、私たちの社会はその問題を深く考えてこなかったといえると思います。
 例えば、年配の人たちは、そんなにいろいろ人間関係を豊かにと言われなくても自分はちゃんと育ってきたと言い、今の子ども達の変化に全く無頓着です。

 そして日本の近代社会では、常に政府が脅しをかけてきました。
 勉強しないと食えなくなるぞとか、社会的に落伍者になるぞとか、勤勉でないと資源がない国だから、生きていきていけないぞとか、常に危機の圧力をかけて、勤勉でがんばらないといけないということをいってきた社会であります。
 しかし、70年代後半から日本は豊かな社会になって、子ども達は、実感として、食えなくなるぞなんていうことは意味を持たなくなっていきました。こんなにコンビニが増える中で、食えなくなるって何のことかわかるはずがないということであります。

 そういう中で、子ども達の内面の世界が空虚になり、自己中心的な非常に特殊な情報をもった世界を生き、コードスイッチングしながら二つの世界を行き来する、そういった子ども達がずっと増えております。今日も学校の先生たちがたくさんおられるそうですけれど、これからもだんだん増えていくと思われます。
 今、小学校に上がってくるお母さんたちは、80年代にビデオが普及し始めた頃のビデオっ子世代のお母さんたちです。こういったお母さんたちが育てている子ども達のテレビとかビデオの視聴時間がものすごく伸びていることは、いろんなデータが物語っております。
 例えば、近年の3歳児検診のデータを見ますと、テレビ、ビデオを3歳児で見ている時間を問うと、4時間くらい見ている人が、4割とか5割とかに達している。都市部の調査ですけれども出ております。
 こういった小さい時から、ヒューマンな人間関係ではなく、動く映像だけに反応している子ども達が、あと続々と続いていております。子どもは映像を見さしておくとずっと見ていますから、小さい時から、自発的な言葉を発したり、自分の感情を検討する力がつかず、人間的な成長がありません。

 極端な場合は一見、自閉症もどきの子どもが増えていると指摘されていますが、こういう子どもたちが小学校に入ってくれば、落ち着きがないし、刺激的な映像にしか反応ができないですから、先生の話を聞いても、かったるくて聞いていられるかという話になる。
続々とこういう状況が続いているわけです。

 そういう危機的な状況が続く中で、国の政策は何をしてきたかです。
 80年代に入って、情報社会に入ってきます。そして、ほとんど同時にアメリカも情報社会に入ってきたことは、同じですけれど、日本の場合は特に情報社会に入って、産業の情報化として見る面しかありませんでした。
 みなさん80年代を思い出してください。銀行とか、証券会社のオンラインをいかにしてやるかとか、非常に旧来の不動産的発想で情報化を考えていこうとしたわけです。
 その中で、文部省は近来の学校教育が、全部うまくいっているという神話にしがみついていて、情報社会が来たので、情報社会に対抗できるような人間を作らないといけない。そして、大学院の重点化とか、エリートコースを作るとか、そんなことばかりやってきました。

 しかし、子どもたちは適応だけうまくなって、人間関係は希薄になって、感情、思考が希薄になっているという今のような問題は隠しようがないわけです。
 例えば、「社会に不正があったときに合法的な範囲で、投書とか、デモとか、そういったことで抗議しますか?」という、総務省が80年からずっとやってきた先進国の調査があります。
 皆さんも何度か見られたことがあると思います。
 韓国みたいに非常に政治性が高い、盛んなところは、60何%ですけれど、アメリカ、ヨーロッパなどほとんどの先進国で、50%前後の人たちが、社会に対していろいろな抗議をすると答えています。日本の若者は、極端に低くて20%です。しかも逆に、何か言ったからといって世の中が変わるわけじゃない、という数字が日本では毎年のように増えているわけです。

 政府の方から見ると、安保闘争とかに懲りて、いろいろ反体制の動きをされれば困ると思って、そういう教育をしてきたんだけれど、すればするほど国民の社会性がなくなっていく。
それで、そういうデータになったわけです。
 例えば、象徴的な事件がオウムなんかがそうです。オウムはだいぶ後ですけれど、理工系から反体制の若者が出るなんて思ってもなかったのに、医学部などからクレイジーな動きをする若者が出てくる。これは政府にとっては、思いがけないことでありました。

 こういった若者の内面が希薄化して、個々の人間関係がなくなって、砂のようになっている状況が生まれていて、そして、80年代になっていろいろな事件が続きます。
 ホームレス狩りとか、若い高校生が女性をいたぶって1ヶ月にもわたって暴漢、暴行をして、汚くなったから殺すとか、コンクリート事件とか、非常に常軌を逸した、人間の共感性を一切失ったような形での残虐な行為がずっと続いてきます。
 そうなると文部省は、政策的にはうまくいっている、うまくいっていると言っておきながら、やっぱり事件が思い出すように出てくるので、それに対して、何とかしないといけないということで、道徳教育だとか、心の教育だとか、スクールカウンセラーだとか、場当たり的に対策をうっているだけの状況にあると言えると思います。

 子どもたちの非常に大雑把なスケッチは、今、私がいったような状況にあります。
非常に閉ざされた自分だけの世界に生きていて、それぞれの子どもが自分だけの情報を集めて、自己中心の世界を作っていくというという傾向が急速に進行しております。

 みなさんも、今、私が言った解釈で見ていただいた多くの事件について、思い当たるものもあると思います。私はずっと、10数年間言ってきましたけど、この前の長崎の事件も同じことが言えます。
 ほとんどの子どもたちが自分の内面の世界を、特殊な世界を持っています。もちろん若者ですからいろいろファンタジーを持ちます。しかし、かつては、会話の中で、自分はこんなことを思っていると言うと、他の子から何をバカいっているとか言われて、会話の中で修正することができましたが、今の子どもは修正不能です。心を開いて伝えることをしませんから、そういうファンタジーだけが膨らんでしまいます。

 そういう中で、子どもたちは80年代後半から、受験勉強ゲームに乗っていっていると思っている4割位から3割位の子どもと、もうそんなものは降りた、まあまあ適当に生きていけばいいんじゃないかという6割位の子どもに分かれてきました。
 それは、小学校の先生方がご存知のように、受験競争がだんだん80年代から低年齢化してきますから、4年生位から、ある程度受験競争に入っていかないと、うまくいかないという状況ができていくわけです。

 子どもたちのアンケート調査で、15、6歳のアンケート調査をみると、「自分の人生はもう見えているか」に対し、イエスという人が6割、7割。ちょっとゾッとするような数字です。15、6歳で人生なんて見えているはずがないわけですけれど、これくらいの成績だったら、これくらいの学校に行って、これくらいの職業につくと漠然と思っている子どもたちが圧倒的に増えている。
 成績が良く、うまくいっている子だって、本当に自分の自己形成をして、社会形成をしているのではなく、ただ勉強ゲームに乗っているだけ、っていう状況にあると言えると思います。

 こういった中で、文部省がやってきたことは、国家主義的な方向で、愛国心とか何とかいって、外から枠をはめて集団を固めようとしてきた。砂のような人間は、旗と歌を強制したからといって固まりっこありませんが、そういうことをしながら、今に至っていると思います。

 皆さん学校の先生方は、もう骨身にしみていると思いますけれど、日本的情報化は、書類がばんばん回って、ばんばん増えていくという情報化で、それが10年間続いていて、全てのことが書類行政に変わっていくということが進行しています。
 昨年の絶対評価の動きなんか見ても、この長野県では、それほどのことはしていませんけども、私のいる京都では、全部の副評とかいうのがありまして、算数だったら算数で、分数とか、整数とか指導要領に書いてある項目をずっと書いて、全部、最初の意欲は意欲の欄、それを生活に利用しようとしているか、理解度はどうかとかいって、マトリックスを作っております。小学校6年生で評価のマトリックスを全部数えると170項目くらいあり、その170項目ごとに5段階評価をつけるんです。
 そんなふうに人間を見たら、隅々まで点数化を考えなくなくてはならなくなってしまう。中学校で専科の先生は、専科ですから160項目も170項目もありませんけど、子どもの顔も覚えていないのに、20、30項目の点数を付けないといけない。そういう、最低限の常識から見たら、クレイジーとしかいいようのないことが、平気で行なわれることが、「学校改革」と言われているものであります。
 こういった情報社会、日本的情報社会に対する批判、人間を主体した情報社会とは何かということ、そういうことは全然考えられないで、ずるずるとここに至っていると思います。

 子どもたちが置かれた大雑把なスケッチはこういうことです。

 私は、是非、皆さんと長野県でいろんなことを提案していきたいと思います。
 この前の(「平成15年度長野県の教育目標」に書かれている)教育改革でいろいろ、学校で子どものためにというか、子どもを良くするとか何とかいっています。まず、そういう発想は、さしあたり引っ込めるべきだと思います。

 2番目には、まず、学校の先生に気持ちよく働いてもらうということが教育行政でするべきであって、学校の先生は公務員で給与を払っているから、当然働くものだと思い込んでものを言うことは、やめなくてはいけないということです。
 人は、「こうしろ、あーしろ」と、「させられる」中では意欲を持っているはずがないからです。
私が学校の状況の中で、一番荒廃していると思うのはこのことです。
 例えば広島です。私はずっと関わりがありますけれど、自殺していく多くの先生方の子どもとの関わりと遺書をみるとぞっとします。

 4年前に、自殺した広島県立世羅高校の校長さんは、(県教委との)板挟みになって死んだ、文部省から来た教育長は、ウソばっかりの報告書を書いたと(『させられる教育』に)書きました。あの校長先生は、自分が今まで部落解放同盟、被差別部落の差別に取り組んできた人間として、子どもたちに、「これからいろいろな社会で抑圧がいろいろあるけれど、自分らしく、人間らしく生きてください」という強いメッセージを残しておりました。
 卒業式のために書いた文章もそういうことが書いてあります。子どもにそういうことを言いながら自殺していくんですね。そう言った人が翌日は死ぬんです。
 子どもから見ると、大人の世の中はこんなもんだと理解しているかもしれませんけれど、子どもはその二つのなぞを解かないといけないんです。これから自分が大人になっていく社会、こういう社会がある、だから自分らしく生きてくださいと表向き言いながら、自分らしく生きられない人間が死んでいく。それが社会なんだというメッセージを強烈に伝えてしまったのは、結局、学校という現場でした。
 こういったことは、いい加減にやめないといけない、まず、学校、先生に対するオリエンテッド(志向性の)、気持ちよく働ける環境を作っていかなくてはいけない。

 そこで、長野県も文部省の出してくる案に全部逆らってサボタージュする、とはなかなかいかないと思いますが、例えばいくつかサボタージュする案を出しますと、まず、私は教員の質を上げる研修はやめるべきだと思います。
 研修というのは、一人一人の先生がしたいことをするのが研修です。一律に研修させる研修なんて、ありえるはずがありません。学校の研修もそうです。

 それから、長野県の状況は知りませんけれど、各地でやっている、1校1目標とか、ああいう一村一品運動の延長みたいなことをやるのもおかしいです。
 本当にしたいことが、目標として挙げられるべきです。それぞれに働いている人たちが、余裕を持って、放っておいてもらって、その余裕から出てきたものが目標です。そして、これに対して、サポートしていくことが教育委員会の役割だと思います。
 一律に研修を叫ぶとか、一律に学校の改革を叫ぶということは、私はやめるべきだと思います。

 それから教師の評価についても、文部省があんなことを言っているから、評価の表を作らないといけないでしょうけど、しかし、絶対評価でありませんけれど、評価の公平さとかいうのは、項目を増やしていけば、増やしていくほど、そのために時間がとられ、そして、その評価に合わせて生きようとする人が出てくるわけですから、そこら辺をちゃんと考えていかないといけないと思います。

 それから、指導力不足教員を見ますと、全国で見て、私はおそらく半分以上は、校長の気にくわない人が指導力不足教員に挙げられてくると思っております。いろいろな裁判で証言に立っていますが、めちゃくちゃですからね(学校の言うことは)。だから、こういった形で自由を奪っていくことをしてはいけないと思います。

 それから、予算は年々増えていますけれど、スクールカウンセラーは、是非、全部やめて、予算を他に回してほしい。スクールカウンセラーはやめるべきです。
 なぜかという理由は、一つは、子どもと付き合うのは学校の先生なのです。教師は科目、心の問題はスクールカウンセラーなんて、そんなことを認めて良いはずはありません。
教師は、人間として子どもと接触していくことが、教師が生きていくための喜びであります。それをスクールカウンセラーに任せ、お金を払う必要性は、私は一切あると思いません。それなら少人数学級の方にお金をまわすべきです。
 
 皆さんもご存知だと思いますけれど、スクールカウンセラーといわれている人たちは、日本では臨床経験はほとんどありません。臨床経験のシステムも作っておりません。
学校へカウンセラーとして来ているのは名前だけの河合隼雄氏(現文化庁長官)が作った集団です。彼らは、盛んに文部省とくっつきながら、スクールカウンセラーを送っておりますけれど、子どもとの関係は、本来、学校の先生の職業の一番根幹に係わることですから、スクールカウンセラーを導入すればいいんだと、いんちきな宣伝に踊らされることは、やめないといけないと思います。

 それから、私は戦後の教育改革で、校長とか教頭とかいう位置づけを、戦前からの管理体制から変えることが出来なかったことに大きな問題があると思います。
 極端な県の広島県みたいなところに行きますと、文部省は一番上にいて、校長さんは、教育委員会から見たら、県教委が言うとおり聞く人です。校長とか教頭は、教育委員会が送り込んだ学校という組織の中のインベーダーみたい、頭の中に植え付けた細胞ぐらいにしか思っていない。
 だから、自殺者が出るわけです。自分の主体を持てなくなった時の苦しさで、死んでいく人が出ているわけです。
 本来、学校の子ども達の人間関係を豊かにするためには、学校の先生方が、自分で授業をやったり、子どもと接触する中で、思ったことを先生同士が話し合って決めていく、そういった豊かな会話がないといけないんです。
 上からのシステム、ヒエラルキー(階層制、上下制)で、校長の権限によって、何かやるとか、お題目のようにいうことではないです。

 私は何度か、校長さんの集まりで、「皆さんは教育委員会がなんと言おうと授業をやるべきです。」と言っています。そうすると、教育委員会は「校長は授業をやってはいけない、教頭もするな、管理だけにしろ」と言います。長野県は知りませんけれど、盛んにそういうことを言います。
 良心的な校長さんが私にこんなことを言いました。「先生、そんなこといっても、私が授業をやって学級崩壊がおきたら、学校の名誉はどうなるのでしょうか。」・・・あまりの正直さに私も絶句してしまったことがあります。

 学校の先生は本来、子どもと一生付き合ってこそ幸せだったと思って、退職できるはずです。子どもと離れて、教育委員会に10年位いた指導主事が突然、現場に戻って「俺は教育者だ」ということがある。
 子どもは生き物です。日々変わっていっています。現場を離れたものに、そんなこと分かるはずがありません。子どもとの接触を持つ中で、学校が特色を持って生きていくんです。これも流れを変えないといけないと私は思います。

 それから民間人校長なんていうのも、もってのほかだと思います。制度的なものになってしまっています。特に良い人がいたら拒むことはないんですけれど、現在の民間人校長はウソばっかりで、実はリストラの対象の人たちが来ています。大半がそうです。今度、広島で亡くなった校長なんて最たるものです。
 子どもが足元に来るとゾッとするということを言っていた人が、たまたま銀行に学校の事務職だったらいいという希望を出したら、これぞとばかり、民間人校長で送り込まれてしまう。そして、苦痛のために死んで行くというんですね。
 それから、学校の先生が、教育と全然関係ない校長から評価されるなんていうことは、職業モラルを壊していきます。
 生涯の仕事として教師を選んだのに、まったく授業もしたことがない校長に評価されるなんていうのは、考えられないことです。私は医師ですけど、もし病院の中でそんなことをあってご覧なさい、おそらく厚生省の大臣はクビになるでしょう。
 学校は、日教組が弱っているから、何でもし放題なんですけれども、こういう一つの職業集団の士気を落とすようなことはしてはいけないと思います。

 それから、いろんな病気の休職者も非常に増えています。長野県の統計を見ても、この6、7年ずっと休職者は増えておりますし、その増えているもの全部が精神疾患によるものになっております。これは全国的な傾向です。大阪府の教育委員会と知事部局のデータを取り寄せてみたら、知事部局は、ぜんぜん増えていませんが、学校の先生だけ、この5、6年、急速に増えています。
 それは普通の民間企業でしたら、こういうことが起こったら人事課が、一体この職場はどうなっているんだ、と検討に入りますが、学校の教育の現場だけはそうではない。教育委員会が、それは先生が悪いからだ、情けないからこういうことになっているんだ、と考えているからです。
 病気を、指導力不足だとかという話にしちゃっています。これはもう止めないといけないです。働く職場が、不健康になっているということをきちっと直視し、調べて見ていくべきだと思います。

 私は、どうやったら、学校での書類を減らせるかということを、この県で是非、瀬良教育長さんにやってほしいんですけど。書類を全部減らせれば、20人学級、30人学級にしなくても、おそらくそれに近い効果が生まれるんじゃないかと思います。
 病院を例えに挙げてばかりで恐縮ですけれど、病院で衛生部から何かの書類を求められると、医師は、報告書については、報酬はいくら出すんだとか聞いて、拒否します。
 みなさん先生方も、なんでもかんでも教育委員会からの書類を書かされて、おめおめと書くのはもう止めないといけないですね。
 是非、書類を減らしながら、多くの時間をゆとりを持って、そして、ゆとりの中で、ふと浮かんでくる子どもの顔を思い出して、あの子に私はなにができているんだろうかと、思えるような環境に戻していかないといけない。

 私は文部省の委員をしていたとき、私がそういうことをいろいろ言うと、彼らは、「先生、そんなこと言って、学校の先生を放っておいたら何するか知りませんよ。」とか言うわけです。彼らが思っているのは完全な性悪説であります。100万もいる先生だから、何をするかわからない。そんなことを言いながら、管理を強化することで自分の職業の領域を維持しようとしていると思いますけれども、やっぱり教育というのは、子どもを信じることですね。子どもの成長を信じることです。
 教えてもらっている学校の先生を信じるということから、私たちは考え方を変えていかなくてはいけないと思います。学校というのは教師と生徒の触れ合いのある学校を作っていかないといけないし、教師が意欲を持って、自分のしたい教育ができる学校を作っていくことが、一番大事だと思います。

 それからもう一つ。今、教えている子どもとだけではなくて、卒業していった子ども達が人生の中でこんな不幸があり、こんな困難があっても、私はこんなふうに生きていますよっていう対話をする機会を設けるということです。
 もう、恩師なんて言葉は死語でしょうけれども、教えてもらった先生と卒業後も対話できるような、そういった関係が必要だと思います。そのことが教師として一生を生きて行くため、一番の生きる喜びではないかと思います。そういった喜びを保障していくような学校を作っていかないといけないと思います。

 それから、教育委員会は、親への啓蒙もきちんと行なわなくてはいけないんではないでしょうか。今のPTAをみると、だいたい校長の指名で選ばれて、どうしようもないPTAばっかりです。近年、PTAの連合会とか、校長会とか、単なる意味不明の団体が、あたかも大政翼賛体制かのような組織としての発言をしています。これはやめないといけない。

 アメリカの学校においては、「市民を作る」ということがPTAのそもそもの基本です。私は、クリントン政権の末期の頃に、東海岸の学校を歩いていたときに、それを実感しました。例えば、ある中学校にいったら、中学1年生が集まって、タウンミーティングをしていました。女の子がクリントンの不倫は、どこまで許されるかっていうテーマを出して、子どもたちがティスカッションする。その周りをお母さんと先生が囲んでニコニコと聞いている。自分たちの子どもが、社会性をこうやって作っていくのを成長として喜ぶ。これが、PTAの姿なんです。
 いつの間にか日本のPTAは、寄付金を集めるための組織に変えられている。教育委員会はもっと親たちに、親が本来教育するものだ、ときちっと言っていかないといけない。

 しかし、近代になって、教育の内容は複雑になりました。そして、親も仕事が多くなりましたから、その代わりを学校の先生にしてもらっているんです。
自分のお父さんなり、自分のお母さんが、妻なり、夫なりが、100%満点なんていう人はいません。憎らしかったり、頼りがなかったり、どうしようもない夫も妻もいるわけです。
 それを学校の先生に代わりをしてもらっているわけですから、同じことです。学校の先生もいろいろ難点があったり、欠点があったりするのが、おもしろいわけですから、学校の先生に右寄りがいようと、左寄りがいようと、そんなことは重要な問題ではなくて、要は子どもと生き生きと人間的に接触してくれているかどうかです。

 (教育委員会は、)学校の教育っていうのは、親自身と子どもの関わりもいろいろな仕方があって、いろいろな家庭があるように、学校もいろいろあって、クラスもいろいろあって、ただ、要は子どもと先生が、生き生きと人間関係を持ち、ケンカをしたり、親しくなったりしながら、そこで市民として生きていくための確かな手ごたえをたどっていることを皆で喜ぶんだ、そういった関係ですよ、っていうことをきちっと親たちに啓蒙していく必要があると私は思います。

 以上、学校の先生をオリエンテッドした改革が必要だということをお話ししました。

 それから制度面のことですけれど、この「平成15年度長野県の教育目標」を読みながら思ったことですけれど、まず、制度いじりですね。学校の先生を振り回してはいけないと思います。

 もともと教育というのは、先生と子ども、あるいは子どもと子どもの人間関係ですから、個別の活動です。マスゲームではありません。
 学校で、いろいろモデル授業だといって、いっぱいやっておられますね。皆さん先生方もやってこられたと思います。あれはマスゲームです。一指乱れずうまくやっているわけですから。やっている人はそれで自己満足しているかもしれないけれど、あれはマスゲームとたいして変わらないと私は思います。
 教育の質というのは、個別の子どもとの関係の中で、その子の能力や発達を先生も触れて驚くことですし、その子も自分がこんなに変わっていくということに、自信を持っていくことですから、制度いじりで、学校とか、教師を振り回してはならないと私は思います。

 教育は「マス」ではなくて、個別でなくてはいけないわけですから、いろいろな形で、総合学習とか、いっぱい言われていますけれど、所詮は、長野県にどれくらい色々な個性を持った先生がいるか、そして、その先生が、その意欲を活用しながら、どれくらい子どもと接触できるかによります。
 むしろ、制度改革を行うのだったら、そういった接触が、他のクラスの子どもも含め、色々な子どもがその先生との触れあいができるような自由度がある制度を作っていくかによると思います。一律にどこかの学校がこんな個性を出しています、ということを押し付けていくことが教育の質を上げることではないと思います。
 どうしても日本の教育は、九九だとか、掛け算とか、漢字とか、一律に全部みんながマスターしてないといけない、みたいな発想がありまして、最低限のことはそうだけど、それに逆に縛られて(年齢が)上に上がっても、同じことを言い続けるという面があります。
 だから、教育というのはあくまでも、個別であって、その個別を通して、それぞれの問題に向き合っていけるようにすることが本当に改革であって、表面的な学校の特色とかいって出すことが改革だと私は思いません。

 私は最近、滋賀県の教育実習をのぞきに行ったんですが、あれは教育実習ではありません。若い先生にとっては、黒板に向って声の量は大きくなくてはいけないとか、いろいろチェックがありますから、プリントもちゃんと作って、黒板にきちっと板書して、ものすごい大きな声で一生懸命講義しているわけですよ。授業をやっていますが、子どもは、うろうろ、うろうろしたり、後ろを向いたり、なんだかんだしています。
 校長もその先生も、なぜ、一生懸命あれほど皆さんがんばっているのに、子どもたちはあれほど乱れているということ、そのギャップについて、なぜ考えないんですかって聞くと、いつもの返事が返ってきます。忙しいとか、規定の基準で決まっているから、それをこなさないといけませんとか、そんなことを平然と言うんです。
 そういうときには声を大きく張り上げるのが基準に達しているとか、そんなことはすっ飛ばしておいて、本来、学校というのは、子どもたちとこの地域における学校教育は何かということを、それこそ校長がリーダーシップをとって先生と一緒になって全体として考えて、学校の校風を変えていくということが出来ないといけないですね。

 そこで落ちついて、知識だとか、色々な人間関係を豊かさに向き合うことができるように変えていかないといけない。
 そういう肝心なことについては考えず、ただ、書類行政の中で評価され、点数化されるような形の教育のスタイルだけ整るという、そこまで、歪んでいるわけですから、なるべく制度いじりというのは最低限にして、本当にしたいことが提案されてきて、それを支えていくような教育委員会になってほしいと思います。

 それから、(学校の)統廃合についても、私はできるだけ工夫をするべきだと思います。
なんか経済の発想とかで、すぐに統廃合しなくてはという発想がある。
 ここで人間にとって、ふるさとの意味と言うのを指摘しておきたいですけれど、ふるさとっていうのは、山があったり川があったり、そして、親しい友達がいたり、そこに重要な役割は母校があります。人間の精神を安定させているものですね。小さい時、少年時代、少女時代を過ごした母校っていうのがあります。それを勝手に、今、大きくなったとか小さくなったとかで、壊したり、統合したりするべきではないと私は思っています。
 どうしても効率を上げていくんだったら、いくつかの学校は制度上、分校とか、連合学校、ジョイント学校とか、そういうことをしながら、人間の精神の安定という面から、卒業した人たちに、あそこにいったらいつも自分が育った思い出の場所があるんだ、ということを保障していくことが大事だと思います。

 そして、出来たらですね、ヨーロッパでは当たり前のことですけれど、まだ日本では学校の先生を同じところに置いておくとろくなことをしない、ということで数年おきに変えないといけないことになっておりますけれど、いまだにヨーロッパの多くの国には、本人が転勤を希望しない限り、勤めた学校で定年までいる先生がたくさんいます。
それがいいかどうか別にして、やはり子どもの目から見ると、恩師がいる、困ったときには、あの懐かしい学校に行ったら、全部はいないけど、数人の先生が残っているということは、大事なことだと思います。
 そういう面を忘れない人事行政、教育行政を、是非やってもらいたいと思います。

 それから、近年、学校がものすごい建物になっています。私の京都でも、山城高校というボロっちい学校が、突然、情報科とか何とかいって、なんとだいたい50億円位ですか、80何億円かけて新校舎を造りました。
 学校を、そういう形でパレスにしてはいけないと思います。もちろんいい建物を作るのは良いんですけれども、学校っていうのはやっぱり自分の精神のよりどころとして、過ごしたところでなければいけないわけで、競争社会に向けて、パレスにするような発想をしてはいけないと思います。

 それから幼少時の教育についてです。本来、教育委員会は幼少時教育といった点に、触れないように日本ではなっておりますけれども、しかし、人間の人格形成にとっては、一番大事なときというのは6歳までですね。6歳までの人間関係が豊かであるかどうかというのは、人間の人格に非常に大事なことですから、やっぱり別の角度から、教育委員会の中に幼少児の担当する場所も作るぐらいにする必要がある。教育委員会がやることは、中高一貫だけじゃないはずです。
 もし、一貫っていうことをいうんだったら、幼少時と学校教育の一貫の方をもっと重視して考えるべきで、小さい子どもたちが、豊かな人間関係を作ってから、学校に来られるようにしないといけない。先ほど言いましたように、テレビとビデオばっかり見ていて、座ることもできないし、映像にしか反応しない。
 セサミストリートはいい番組だなんていいながら見せている親は、これはとんでもないことで、良いも悪いも、幼少時に映像を見ることに多くの時間を過ごすと、人間はダメになります。自閉症的な人間になって、自発語も少ないし、感情も貧困化します。

 幼少時と学校教育のつながりを作りながら、親と子のふれあいを豊かにしていく。そのために教育委員会は、子供と親が過ごせるように、例えば、時間外労働が非常に多いとか、そういった労働の現場にも発言していく必要があると思います。
日本の夫婦は、教育ビジネスなんか、やっている夫婦が圧倒的に多いわけです。夫婦が豊かな人間関係をもてるようにしていくことが、子どもが豊かな人間に育っていくことですから、そういったことについても、教育委員会は、ある程度、見識を示していかないと、学校教育はできないという状況にあるんではないでしょうか。

 それから、中高一貫教育については、私たちはもう1回、大学教育との一貫性とか、就職との、職業教育との一貫性とかの中できちんと考え直さないといけない。ただ単に中高一貫で、エリート高校に入れる、エリート大学に入れる、理工系重視の一貫とか、「一貫」の言葉に踊らされてはいけないわけで、一貫というのはいろいろな角度があるんだということを見直さないといけない。

 私、(アメリカの)チャータースクールをいくつか見ておりますけれど、日本の文部省は絶対にチャータースクールはしないでしょう。皆さんの報告書を見ても、チャータースクールは子どもがいろいろ自由な学校を選べるというように言っていますけれど、これは私は認識が間違っていると思います。
 チャータースクールというのは、学校で先生が好きな教育をできるところです。子どもがいろいろな学校を選べるところではありません。もし、日本にチャータースクールの制度があったら、こんな書類を押し付けられるのが嫌だという先生が、この指止まれで何十人か集まって、校舎が無くっても、いろいろな公民館とか借りることも含めて、私はこんな教育をしたいと、チャーターを掲げて、そして、そういうことを意欲的にやれるのが、チャータースクールであります。

 チャータースクールの検証ということがありましたけれど、私はこういったもの導入は、国全体の制度の中で、変わっていかない限り無理だと思います。しかし、公立学校であっても、学校の先生方が一緒に地域の親と話し合いながら、特色のある学校をやっていいはずです。
ヨーロッパの学校だったら、例えば、小学校でモンテッソーリの方式で、学校を運営するっていって、公立学校でもやっています。もっともっと学校は自由なはずです。
 ただ、問題は先生方の意欲ですから、先生方が意欲を持ってこんなことをやろうということを出して、特色ある学校を作って行かなくてはいけない。

 そして、意欲の条件はゆとりだと思います。ゆとりを奪って締め付けておいて、意欲は出てきません。なんとなく退屈しても、無為でも、そこの中から、ふと出てくるものが意欲であります。制度については、そんなことを考えておくべきだと思います。

 まとめですけれども、教育を通じて大人が与えることができる基本的なメッセージというのは、近代の日本では、教育というのは「何かになる」ためのものでした。富国強兵の時代には、強い兵士になるとか、強い産業人になるとか、「何かになる」ためのものでした。
子ども権利条約とかが言っていることは、そうじゃないはずですね。
 子ども時代は、子ども時代としてちゃんとあるはずです。私ら大人は子どもに、楽しかった子ども時代の「今」を提供するのが、私たちの仕事であります。
 「何らかの成功者になるために子ども時代を生きなさい」とかいう、これまでのメッセージを、日本の近代の歩み、歪みを振り返った上で、もう1度私たちは、見直さないといけない。

 それからもう一つは、良き市民になる教育というものを、ちゃんと基本に据えていかないといけない。そのためには、私たちは市民って何かっていうことをちゃんと考えていく必要があると思います。
 いろいろな教育の改革の中で言われているのは、情報社会でのビルゲイツのようになったら成功だというイメージしかないでしょう。
とんでもないことでして、例えば、長野に帰って来てもらって良い人になるっていうことは、どういうことか、長野の市民として素晴らしい人間とは何かということです。それを私たちはもう1回きちっと考えていかないといけないと思います。

 一応指摘しておきますと、私はやはり、感情が豊かな子ども時代をすごして、人間関係が豊かな人であることが、まず第1だと思います。
 イタリアで子ども達、高等学校の生徒達にインタビューしていて、こんなことを聞きました。「あなたは40歳になったとき、どんな生活をしているでしょうか。そのイメージをちょっと僕に語ってくれないか。」ということです。そうしたら、イタリアの若者達の多くはこんなことをいいます。「いい友達を持って、夜も一緒に食事をしたり、お茶を飲んだりしたり、いい友達を持っていること。」それから、「お父さんとか、親戚、兄弟が、比較的近くにいて、彼らともいい関係をもっていること。」です。こういったことは必ず言います。
 それから、3番目、4番目位で、仕事がうまくいっていることとか言うんです。
だけど、同じ質問を日本の高校生にしても、イタリアの子ども達の1番目、2番目を最初に挙げる子供に会うことはめったにありません。
 それほど、日本は人間関係の喜びを忘れてしまっていますね。せっかく生きているのだから、人間の喜びっていうのは、人と付き合うことの喜びであります。そして、付き合うというのは、自分を表現し、相手を理解することの喜びです。
子ども時代の中で私たちは、豊かな感情交流と、人間関係ができるということが、まずないといけないと思います。

 それから2番目は、判断力をもった人間にならなくてはいけない。
 判断っていうのは、いつも成功するのかどうか、正しいかどうかわかりません。しかし、一定の情報を集めて自分なりに批判して、判断して行く。そういうプロセスをたどっていれば、失敗しても、また、次のステップに進んでいくことができます。
 しかし、今の高等学校までの教育の中では、そういった情報を集め、そして整理し、判断していく、そういった思考力、思考力といわれるものが近年非常に歪められて、行動力だとかに置き換えられているんです。想像力っていうのも、強いられた理工系の情報社会のプログラムとかの想像力だけなんです。そんな虫のいいものがあるはずがありません。
 やはり私たちはきちっとした社会的な思考力を身につけていくということが、学校教育の中で非常に大事なことだと思います。それに付随して、数学とかの思考力も必要ですけれども、やはり、まず、判断力を持った人間を作っていくことでしょう。

 それから3番目はですね、子ども時代の中で、乱雑では困りますけれど、あれもしたい、これもしたいという、いくつかのモチーフを、動機を持った人間になっていくということでないでしょうか。
 そのためには、小さい時から、お父さん、お母さんが「何かしたいことがあるの」って言うことで、それを聞く。言い始めた時には、この子は社会に向かって、「あんなことをしたいんだ。」ということを思うようになったことを、喜べるような親にならないといけないし、そういった環境じゃないといけないと思います。
 今の教育の中では、あれしたい、これしたいって言うと、「そんなことは言ってもダメよ」、「いい成績をとっていれば、なんでもできるからね」って、そういうメッセージが非常に多いです。
我が子が、いろんなことをしたいと言い始め、その意欲を育てることが、親が子どもを生んだ喜びであることを、きちっと確認している人たちは非常に少ないと思います。

 人生というのは、何になりたいとかいっても、全部実行はできません。しかし、例えば、社会教育が充実するということは、人生が一つだけの職業ではなくって、2つか3つ、10代になったらまた変えて、子ども時代は、英語をあんまり勉強しなくって、大人になって勉強する、40才になってから、地方の文化に関心を持つとか。そういったときに、どんな年齢でもまた勉強ができるような環境を作っていくのが社会教育の充実であります。
 だから、小さいときに2つか、3つか、4つか、5つか、自分なりの動機をもった人間に作っていくということは大事ではないでしょうか。

 私がこれを非常に実感したのは、90年の時にウイーン大学の教授をしていたときです。
そのとき、私は大学院の文化比較学の教授で、学生は、ウイーンの音楽学院の、名門学院ですけれど、ある学生が卒業生の意識調査をしたいということで、研究し、中間発表したことがありました。
 それまで知らなかったんですけれど、この音楽学院っていうのは、卒業生の半数は日本人です。日本の留学生は、東邦とか、国立とか、芸大とかを卒業して、おうちもしっかりしていで、留学してきたら、教授について、個人レッスンも受けていて、確実に進級して卒業までいきます。
 だけど、かたやオーストリアとか、ヨーロッパ側の学生は、挫折もいろいろして、卒業するのは五分五分でした。そうした日欧の学生を比較して、こんな中間発表がありました。
そのそれぞれの学生が何を言ったかというと、日本の学生は、「卒業したら自分は芸術家だから、リサイタルを1、2回開いたら、あと大体9割方は、結婚する。結婚が遅れてるから、結婚の相手は芸術家だから、お金持ちとしなくちゃ」って、そんなことを言っているんです。
 それで、「お金持ちっていうのは、中小企業の経営者の息子だ」とか、わけの分からないことを言っています。音楽家も社会性はこの程度です。
 しかし、ヨーロッパ側の学生は、そんなことを言っている人はいないんです。自分は音楽の道を選んだと。それでたとえ、ウィーンムジークアカデミーという名門を卒業しても、プロの音楽家として生きて行くのは大変だと。しかし、自分が選んだ道だから、こんなことをしたいとか、いろんな抱負を言っています。

 この対比があんまりくっきりしておりまして、私はその研究発表をした学生に「それぞれの人が音楽を自分の生涯の道に選んだエピソードがあるかどうか、もう1回聞き直してきたら」って、指導しました。
 そしたらおもしろかったんですが、ヨーロッパの学生は、もちろん音楽家の家庭が多いですけれど、それでもみんな自分のエピソードを語るんです。
「6歳の時に室内楽でバイオリンを弾いた時に、音楽家のおじさんが来て、すごいねって言ってくれた」とか、「その時の思い出があって、それを言うとお母さんがやってごらんって言ってくれた」とか、それぞれの思い出を語ります。
 しかし、日本側は全然エピソードがないです。
 日本側はこう言います。「もの心ついた時には、先生がいました。それからずっと、厳しく教えられていました。そして、高校生くらいになったときに、自分はピアノとか、バイオリンしか弾けない。どうも偏っているなって思って悩むこともありました。しかし、他の道も選べないので、こうやって今来ています」ですね。
 本当に自分がこれを選択したというモチーフを持っていないんですよ。だから、卒業して、音楽会で賞を取る人もいるけれど、やっぱり日本の音楽を聞いていて、力がないのはそのせいかなって。ここは私の偏見だけど。

 やっぱり、したい、自分が本当にしたい、自分の人生の過程で、幼い時にこんなことをしたかった、あれもしたい、これもしたい、それを二、三きちんと持って、人生の拠り所にしていくのが、その人の生きる喜びであるはずです。
そういったものを保障するような教育を私たちは作っていかないといけないと思います。

 教育の中で行なわれていることは、個々の人間の人格の統合であります。
先ほどの自殺する校長とか、教師ではありませんけれど、現代社会の中で、役割に応じて自分を装うことが巧みになることを適応と言っております。
 しかし、今の教育は、役割に応じて人格を分裂させていく、今流行の言葉ですと、子供言葉で、「キレる」です。一生懸命適応しているけれど、適応しきれなくなると、キレりゃいいんだということになります。あるいは多重人格だということを、「乖離」だとかそんな言葉を弄ぶ子供たちが、非常に多いです。犯罪した時には、別の自分がいたとか、こういったことは役割に応じて、うまく適応することが主になっているわけです。
 教育というのはやっぱりそうではない。役割は色々違っていても、自分は自分としての、統合した人格を作っていくことができる。そういうものを大切にするということではないでしょうか。

 あと、細かいことですれども、スポーツの振興というのも、もうそろそろ私はやめるべきだと思います。振興というのは、根性をつくためのクラブ活動とか、競争心をあおるためのスポーツとかいう意味ですが、いい加減にもうやめるべきだと思います。
 スポーツっていうのは、自分の健康を生涯にわたって、発展させていき、維持するためのスポーツっていうものでなくてはいけないし、あるいは一緒に人とスポーツをする喜びとか、そういうものをきちっと伝える。あるいは、ここは信州ですから、自然と歩くことの喜びとか、そういったものです。
 なんか、今学校でやられているような、思春期には悪いことを考えるから、スポーツで悪いことを考えさせないようにするとか、根性を付けるとか、こういうかつての軍国主義のなごりみたいなスポーツクラブの精神は変えていかないといけないと思います。

 それから、是非ですね、さまざまな学校の先生に伝えたいことですけれど、先生方も大人社会に、励ましの文化、賞の文化、プライズを作っていかないといけない。
全国の今までの動きは、各地で選抜試験をやって、だんだん進んでいって、国体に行ったら1番。あるいはオリンピックに行ったら1番です。そういった非常にヒエラルヒーのある賞の文化を作っていきました。
 そうじゃなくて、良く知り合った人間として、人格的に触れあいのある人から、あなたはこんなことについて関心があるんだな、あなたはこんなことができるんだな、っていうことを喜んでくれる、そういった励ましの、賞とか文化を多様に作っていくことが、子ども時代、大人の持っている教育の中で大事なことではないかと思います。
 だから、小さな人間としての触れあいを豊かにするようなプライズの文化、励ましの文化を巧みに作っていくということは大事でないでしょうか。

 そして、最終的には、学校教育というのは、英語の言葉で、アンダーリングっていう言葉がありますけれども、教えられたものを疑って、生涯かけて捨てていく。そして、自分らしい言葉をつくり、自分らしい感情をつくり、自分らしい思考を作っていくプロセスですから、学んだものを捨て、疑えるような人間になっていくことです。
それが学校教育の、私たちの最終的な目標ではないかと思います。

 いずれにしても私は、今みたいに学校の先生の頭を切って、足を切って、揃えて教育しろと、人間でないかのように、言うとおりになるという発想をしている文部省の教育をこの県から変えたい。
 そして、信濃の教育のいろいろな伝統がありますから、皆さんがしたいことをそれぞれに掘り起こししながら、本当にしたいことを提案されて、それを聞いて教育委員会は支えていく。そういった関係に作り直さないといけない。なんか絵を書いた紙に、いかに良いことを書いても、意欲が湧き上がってくるような教育体制に変えない限り、意味がないと思います。

 是非、私は今回初めてですけれど、教育長の瀬良さんが学校単位で、1校じゃないです、地区単位で歩かれて、先生方に減点主義ではなくて、したいことがこれからできるんだよって、メッセージを伝えてほしいと思います。
 そして、そこまでしても、する気もない人は、やっぱりそれは指導力不足教員で辞めてもらわないと仕方ないですね。
 こんなことを言ったら、やっぱり、飴とむちもあるのかなって、批判をされると困りますけれど、それは冗談であります。

 最後の結びとして、私は是非、教育界から「指導」という言葉を追放してほしいと思います。
あの「指導」という言葉は、融通なげな言葉ですね。言うとおりにしないと処分するぞっていうのも、「指導」であります。あんなことが、文部大臣から学校の先生、子どもの言葉まで、教育の中で横行しています。「指導」というのは本来ですね、模範を示して教え導くことであるわけです。
 本来の「指導」っていう言葉でない限りは、「指導」という言葉を使わないような教育委員会を長野県で是非、作っていただきたいと思います。

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