プロフィール

1948 年
長野県小布施町生まれ

1973 年
慶応義塾大学法学部卒業、
ソニー入社

1980 年
小布施堂入社

1982 年〜
町並み修景事業

1988 年
商工会地域振興部設立

1944 年
ア・ラ小布施設立

 活動内容
第 3 セクターの町づくり会社「ア・ラ小布施」を立ち上げ、地元住民と一体となった町おこし運動の中心的人物として、栗どっこ市や小布施映画祭、国際音楽祭等、様々な企画イベントや事業を成功させ小布施の名を全国的に高めた。また、「ア・ラ小布施」の代表として、地域産業に関する商品企画・立案、地元農林加工品の製造・販売などにおいて、全国的に事業を展開し、小布施ブランドを発信し続けている。はやくから小布施のまちなみ修景事業に取り組み、この修景事業による小布施の「顔」づくりに大きな役割を果たした結果、歴史的建造物はそのまま生かされ、界隈性のある空間を巧に演出することに成功し、多くの観光客を惹きつけている。
「本当に豊かなコミュニティとは? より高い小布施文化のために」

―町並み修景事業は今でこそ各地で行われていますが、先駆的に始められたキッカケはなんでしょうか。

「昭和 56年、※高井鴻山記念館を造ろうという計画が持ち上がった時、ここら辺全部畑だったから、ただ記念館を造るだけじゃつまらないと言い出したんですよ。それで、国道403号線沿いの袋小路になった120m四方くらいのエリアを面白い空間にして、その中に記念館があればいいんじゃないかと社長から提案がありまして、それがキッカケですね。」

―苦労されたことはありますか。

「この 120m四方の中には6人の地権者がいて、6軒のうち3軒が法人で、駐車場が欲しいとか商売上のニーズがあったんです。残りの3軒は民家だったが、ニーズがあったんですよ。小布施の民家は京都的な造りで、間口が狭く奥行きがあるから日照が悪い。それと車社会化に伴って騒音の問題もあった。法人と民家では違いはあるがニーズがある。土地売買などの経済的な問題をクリアできれば、契約が結べるということになって、会議が始まったんですよ。それが五者会議といって二年間で100回くらい会議を行い、まったく対等な立場で協定が結ばれたんですよ。その中で家の財産とかみんな裸になったんです。で、ここまでオープンになったんだから面白い事をしようって事になって。民家を開いて、パブリックな所から民家に入り、そしていつの間にかまたパブリックに戻る。人のうちの庭先を通ったり裏庭を通ったり。言わば、昔の田舎の空間が事業の根底にあるんですよ。みんな一生懸命だったから楽しかった。」

―この事業で変わったことは何ですか。

「先祖伝来の土地を売買せず交換や賃貸することでコストが掛からなかったり、規模もそんなに大きくないこの事業はまだ全国的に珍しくて。それで、考え方やシステムなどが注目を浴び、外から評価を得るようになったんです。外から評価されたことで、町の人が景観を美化することに価値があると考えるようになったんですよ。それ以来、家を建てる時やお店をも町並みや景観に配慮するようになったわけ。景観を大切にしようとする事は小布施にとって重要なアイデンティティーですよ。よく、地域の中で『意識改革』とか言うけど、同じコミュニティの中では意識は変わらない。外からの刺激が絶対に必要。」

―ア・ラ小布施の経緯について教えて下さい。

「私は町並み修景事業に小布施堂と民家の両方の立場から関わったんですよ。そこから学ぶことはすごく多くて。これを是非みんなに教えたい、伝えるのが俺の仕事だって考えるようになったんです。みんなでやる事、共有して何かをすることの楽しさを知ってもらいたかった。そんな時に“地域振興部会”というのを作ったんです。その会はイベント等によく機能して、行政や町民からも信頼を得るようになった。でも6年くらいたった頃に、助成金にどっぷり浸かった状態やその当時の組織のあり方に疑問を感じ、何とかしなければと思って自分たちで会社を作ろうと思ったんですよ。それで地域振興部会のみんなに、お金を出してもらうけど見返りはないよという酷いお願いをしたんだですよ。でもみんな乗ってくれて、町も出資してくれたことで公共性を手に入れ、第三セクターとして 13年前に設立したんですよ。」

―多岐にわたる事業を手がけてらっしゃいますが、成功のカギは?

「やりたいって手を挙げた人が親方になるってこと。そうすると、それに対しての思い入れもあるし、そのひと自身が育つんですよね。例えば映画祭。僕がまだ中学生くらいのころ、小布施に映画館ができたんです。その映画館で働く人たちはインテリジェンスでとても面白い人たちで、ちょっと雰囲気が違ったんだよね。若い頃ってそういうのがかっこいいと思ったり、惹かれるじゃない?そういう映画への印象や憧れから映画をやりたいと思ったんですよ。人間は、こういう思い入れやそれぞれ得意なものがあって、それを生かすべきだし、一度は主役になってみたいもの。そうすることによって力も付く。そういう大人が一人ふたりと増えて横に広がり、繋がっていかないと意味がないんですよね。それに思い入れがあると伝わる。だから子供の頃の体感みたいな、根っこにあるものや動機を探ることが大切で、何がゆえにコレという見極めが大切なんですよ。」

―たくさんの事業の一つにイベントがありますが、心がけていらっしゃることはなんですか。

「それは、イベントはどこでも出来る、イベントをするのに場所がないって事は関係ないって事。町並み修景事業で面の整備がされていく中で“駐車場”という空間ができた。でも駐車場と言ってしまえばそれまでだけど、それを“広場”と考えたんだ。広場はイベントを行う空間。そう考えると空間はどこにでもあって、イベントの可能性や幅がものすごく広がるんだよね。

普段は落ち着いた日常を望んでも、時々それが一転してイベントで華やかになれる。素敵な興奮が得られる。まさしく町並み修景事業に織り込まれたのはこういう考え方ですよ。

もうひとつは小布施風、小布施流であること。小布施でやればこうなるっていうことですね。例えばコンサートをするとき、演奏される曲の内2曲を小布施に関係のある曲にするとかね。簡単に言えばそんなことから、小布施らしさを大事にしています。」

―これからの小布施文化を高めるために何が必要とお考えですか。

「それは重層性ということ。まずは田舎の素朴さや景観、もてなしの心とか人好きなところ。これが根底になきゃだめだよね。景観でいえば、ただ町並みが揃うだけじゃなくて、田園風景などのもともとの美しさを考えていかなくてはいけない。町を支える経済的なことでは農業や林業の復活など、田舎本来のものを守るというのがひとつ。もっと深く掘り下げなくてはと思うんですよ。そして単なる田舎町ではなく、どんな人が来ても対応できるような、何かキラリと光るものがなくではいけない。欧米の各地では世界会議が行われているけど、日本では色々なしがらみがあって、それだけのことがなかなか出来ないんだ。でもそういうことが出来るような志を持った町を創っていきたい。最先端のものと田舎らしさが二極化するんじゃなくて、重層的というかグラデーションにできる町に。そのために、自分も含めて町の人たち全体が高くなっていく必要があるし、力のある人材に育っていかなきゃと思ってるんですよ。」

―最後に、今の若者についてどうお感じになりますか。

「私たちの年代は、戦後の復興から劇的に変化した日本の歴史の移り変わりを否応なしに肌で感じてきました。だから若者も歴史的なことを学校で学ぶだけじゃなくて、自分の中で時代の流れみたいなものを押さえられればいいかなぁと思う。そこからいろんな興味が生まれたりするからね。そういう自分なりの歴史観と、若い人たちの持つ新しい感性とか順応性やリズム感が合わされば、いい人材になると思いますね。日本は豊かになったけど、その反面で失われたものも沢山ある。若者が将来像を描けなくなったのは、大人の責任かもしれないけど、もう一度地域や根源に目を向けて、本当に豊かなコミュニティってなんだ?と考えていきたいですね。」

※高井鴻山…小布施町出身の陽明学者