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最終更新日:2002年1月15日


新規採用職員任用式訓示(2003年4月1日)


改めまして、先ほど公営企業管理者及び教育長と並んで新しく私たちの長野県の県民のための奉仕者として迎え入れた皆さんに辞令を交付させていただいた、私は長野県知事を務めております田中康夫でございます。
 皆さんはなぜ長野県の職員というものを目指されたのでありましょうか。もちろん今、宮崎さんがお読みになられましたように、全体の奉仕者として働くのであると。そうした高い志を持っておそらくは目指されたのだと思います。でもほんのちょっぴり正直なことをいうと、自分の多くの方は地元で両親の顔を見ながら、あるいは家族の顔を見ながら働ける職場であるということも少なからず選択肢の中の一つであったかもしれません。もっと正直にいえば、それなりのお給料がもらえそうだし、あるいは犯罪を犯さなければ60歳まで安定した身分でお給料ももらえそうだから、不確実な時代にこんなにありがたい職場はないと思ってあるいは応募なさった方もいらっしゃるかもしれません。もちろん皆さんは多くの他の皆さんにとっては、その段階においては競争相手でありました多くの応募者の中から皆さんのその知識というものを試すペーパーの試験であったり、あるいはまた皆さんのその人間としての素晴らしさを見極める面接試験を通じて今この場にいらっしゃるわけです。ですから皆さんの当初の志というものがあまりこのホールの中では大きな声では言えないかもしれないことがあったとしても、今ここに座ってらっしゃるということは、それは皆さんはまさに公正な全体への奉仕者としてふさわしいと、少なくとも面接を行った私たちが判断をして迎え入れたわけです。そのことには少なからず誇りを持たれることはむしろ望ましいことであろうとは思います。ただ、そこで先ほど宮崎さんのあいさつの中に、全体の奉仕者として奉仕をするという言葉がありました。公正に奉仕をするという言葉があったわけですが、じゃあ全体の奉仕者というのは果たしてなんでしょう。全体という言葉は、それは辞書を引けば様々なことが書いてあるかもしれませんが、皆さんは長野県という組織のために働くわけではありません。長野県という組織、これは非常に難しくて、例えば財務省といった場合には、その財務省の行っている仕事、あるいはそこを構成している人というものの両方の意味があるわけですけれども、長野県といった場合には、この長野県を構成してる220万余りの県民のためと同時に、その教育職や警察職を含めると3万人にならんとする長野県の職員というものの集合体としての長野県と。この二つの意味があるわけですね。そしておそらく皆さんは全体としての奉仕者というふうに考えた時には、その県民のための奉仕者なのだというふうに思ってらっしゃると思います。もちろんそれで誤りはおそらくはないわけです。けれども県民のための奉仕者であるはずの全体という言葉がいつしか皆さんの中において変容してくる可能性があります。それはすなわち全体というものが一人ひとりの顔の見える220万の緩やかな集合体としての長野県ではなくて、多くの先達たちが形づくってきた長野県の行政のシステム、あるいはその行政のシステムというものを形づくっているその組織というものが全体であるかのように勘違いをする可能性がよくあります。全体への奉仕者という言葉を正直申し上げるとあまり私は違和感なく受け入れることができない。全体という言葉をおそらく皆さんが日本はあまり現代史というものを教えないという素晴らしい教育のシステムになっているらしいのですけれども、全体主義という言葉であったり、あるいは無私の精神というものであったり、こうしたものを連想してしまいがちだからかもしれません。
 話を変えると、私は皆さんもご存じのように、多く県民のための奉仕者、つまりサービスということを申し上げてきてます。このサービス、もっときれいな発音をなかなかできませんが、サービスは「V」なので「サーヴィス」って言わないといけないのかもしれませんけれども、そのサービスは本来ラテン語の原義の中においてはスレイブ(slave:奴隷)であったり、あるいはサーヴァント(servant:召使い)という言葉と同じ語源にあります。スレイブというのは今のこの私たちが公正なチャンスを与えられる社会においてはそれは忌むべき本来存在であるはずのスレイブ、奴隷ですね。あるいはサーヴァントというのは召使いであったりするわけです。長野県は今度新しく県民のためのコンシェルジュ(concierge:管理人、ホテルなどの接客係)というサービスをはじめますけど、このコンシェルジュというのは、ある意味でいうとバトラー(butler:執事)という言葉と同じ執事という言葉です。羊じゃありません。執事ですね。なぜサービスという言葉がスレイブという奴隷であったり、あるいはサーヴァントという召使いというところの原義であるのかということです。もちろん身分差別ということを私は断じて認めているわけではありませんけども、そもそものそのサービスという単語には、仮に先ほど宣誓をした宮崎さんが王様であったとして、そして私が宮崎さんに仕えるサーヴァントであったとします。けれどもそれはこの天空、あえて私はある種無神論者ですから、神という言葉はどこかの偉大なる戦争を仕掛けている先住民族とバッファローを殺りくした歴史が自由と民主主義の歴史と小さな博物館に飾ってあるような大きな大陸の夜9時半には眠ってしまう方とは違うので、あまり神という言葉は使いませんけれども、仮に宮崎さんが王様であって、そして私が召使いであったとしても、その天空、広くいえばその神の下で私は先ほど宣誓をなさった宮崎さんの下に使わされたわけです。けれどもそこに絶対的な違いがあるわけではありません。同じヒューマン・ビーイング(human being:人間)として同じ人間として、私も人間としてたまさか皆さんの側に仕える執事であるということです。そしてそのサービスを受ける皆さんも同じ天空の下においては同じ一人の人間としてそのサービスを謙虚に受ける存在であるということです。サービスというのはお金があれば買えるものではありません。お金があればなんでもしてもよいということでは必ずしもないのです。天空の下において人が人に尽くすという役割を自分に与えられたことを謙虚に感謝をする。その意味合いがサービスという言葉にはあります。そして同じ人間として一人の同じヒューマン・ビーイングであるものが自分のために尽くしてくれることに謙虚に感謝をするという意味合いがサービスという単語にはあるわけです。そしてその仕えることの充実であったり、あるいは仕えてもらえることの喜びであったりというものは、本来数字では換算しにくいものであります。お金があれば何かが買えるということではありません。バブルな時代といっても皆さんは私と違ってずいぶんと若くてらっしゃるので、バブルな時代に少し景気がよくて何かいい思いをしたなどという世代ではないと思います。皆さんは物心ついたころから経済成長などというものが永遠の右肩上がりであるなどという時代ではなくて、むしろ私たちの時代というのは、そこそこ同じ歩みの仕方ができれば、それでむしろありがたいと思うような、そうした謙虚さをわきまえてきた世代であろうかとは思いますけれども、今そのサービスという単語はもう一つ置き換えるとステイクホルダー(stakeholder)という言葉があります。経済学を学ばれた方はおわかりかもしれませんが、ステイクというのはお肉のステーキじゃありません。ステイクというのは「杭」という意味です。こういう木の杭のことをステイクといいます。ステイクホルダーというのは何かというと、いわゆる株主のことをステイクホルダーといいます。なんだまたお金もうけの話かと皆さんは思われるかもしれませんが、まさに新しいイデオロギーではない一人ひとりの緩やかな顔の集合体において、一人ひとりが自分が社会に貢献できることがある。そうした社会の経済をステイクホルダー・エコノミーといいます。ステイクホルダーというのは同時にステイクというのは賭け事という意味があります。実は乗馬というのは、いわゆるそこにはもちろん二重構造、三重構造の身分差別があったわけですけれども、いわゆるイギリス的なホワイトの世界においては競馬をするということは一つの社交でありました。ですから、その競馬の杭につながれている一匹の馬がいます。そしてその杭、ステイクのホルダーで賭け事をする人というのは、同時にその経済に参加をしているということです。その経済に参加をしている人は馬主もいるかもしれませんし、騎手もいるかもしれませんし、調教師もいるかもしれません。馬券を売っている係もあれば、お掃除をする人もいるかもしれない。実際に馬券を買う人もいるかもしれないし、ガードマンの人もいるかもしれません。それぞれ天空の下において与えられてる役割は異なります。そして呼び方も異なります。おそらくは収入も異なるでしょう。与えられてる権限も異なるでしょう。けれども、そうした数字や名称で換算できることではなくて、一つその自分たちが構成されている社会にきちんと自分の顔が見える形でそれぞれ役割を持って参加をしている。収入は異なっても、行う仕事は異なっても、その一人もが欠けるとある意味では大変になめらかな社会ではなくなってしまう。自分がそこに参加していることによって社会の他の人を助け合うことができるというものをステイクホルダーというふうにいいます。
 私たちの長野県は1階に先ほど今日の式がだいぶ前の辞令交付が、皆さんの先輩への辞令交付が長引いてしまったので、時間が遅くなったので、あるいはガラス張りの私が通常仕事をしている知事室をご覧になったかもしれませんが、その横には県民ホールと呼ばれる誰もがそこに待ち合わせをすることができる場所があります。近くおそらく夏前には、あの県民ホールの一角を拡張する形でパンそしてお茶を飲むことができるコーナーがあの場所にできます。それはスワンと呼ばれるベーカリーカフェができるわけです。これはヤマト福祉財団と呼ばれるヤマト運輸と呼ばれる宅急便を行っている会社、このヤマト福祉財団の理事長であります人物は私たちの長野県の外郭団体の見直しを行う委員会の座長を務めていますけども、このパン屋さんが1階の一角に開店します。これはどういうパン屋さんかというと、いわゆる知的障害をお持ちの方々が他の人と一緒にパンを焼き、そしてお茶を出すという喫茶店であります。東京には銀座と赤坂にあり、そしてまたフランチャイズで十条と呼ばれる北区の場所にあります。この十条のパン屋さんをフランチャイズで経営してるのは長野県出身のある女性であります。十条の場所では商圏が限られているので、そうした障害者が社会参加をするパン屋さんとて成り立つのは難しいと当初ヤマト福祉財団はいいました。けれどもこの女性は一つの情熱を持っていて、そうした障害を持っている人がやはり社会において役立てる場所を私がつくりたいと彼女は考えたわけです。彼女は十条にパン屋さんを出しましたが、果たせるかな、さして商圏は広くないので、お客さまの数はさほど多くはありませんでした。お客さまがいらっしゃるのを待っているのではなく、ならば私たちはパッシブ(passive)な受け身ではなくて、アクティブ(active:積極的)にお客さまの場所へとパンを届けるスワンであろうと彼女は考えます。銀座や赤坂の店舗は待っていてもお客さまが来る、そうした恵まれた場所でした。彼女は1台のトラックを買って、ご存じのようにパン屋さんというのはお豆腐屋さんや新聞配達屋さんと同じように世界で一番早起きな人々です。その焼き上げたパンをとてもおいしいという評判が立って、十条から練馬区であったり杉並区のおうちが買ってくれるようになった。あるいは池袋や目白の食堂がそのパンを使ってくれるようになった。パンを運転ができる人たちが届けるようになります。するとその知的障害を持っている朝早くから一緒にパンを焼いている人たちが、自分もそうしたパンを届けたいということを意思表示するようになります。もちろん言葉でなめらかに語ることはできなかったかもしれませんが、そうした意思表示をします。当初彼女はそのことに戸惑いを感じます。なぜならば渋滞をしている環七をトラックに乗って障害を持っている人がパンを届けに行くと、大変に体力を消耗してしまうんじゃないだろうかと思います。あるいは実際にパンを届けて、お金をもらうことをしてみたいという意思表示をします。多くは1カ月分を振り込みにしてますし、その方が間違えがないし、とても効率的であると。もしもお金の勘定を間違えたらどうしようと彼女は思います。けれども多くのそこに参加をしている障害を持っている人は、私たちがパンを届けたいという意思表示を続けます。ある時、車に二人ほど乗せてパンを届けに行くと、今までパンをおいしいといって買ってくれていた住宅街の人が、あるいはレストランの人が、「ああ、あなたがパンを焼いてくれてたんですね」と言いながら、あるいはその言葉は的確には伝わってはいないかもしれませんけれども、そのパンを受け取ってくれる。そして朝早くから焼いていた障害を持っている人がそのパンを手渡す。あるいは本来は振り込みであるものをお金をその場で現金をくれると、そのお金を一生懸命に計算をする。それは私たちの先ほど実はステイクホルダーということを言いましたが、金銭であったり時間であったりの効率では計ることができない、人間が人間として生きている喜びの確かさです。長野県は「優しさ・確かさ・美しさ」という三つを私たちの社会が目指すべきキーワードとして掲げています。「優しさ」は誰もが思い浮かぶでしょう。「美しさ」もまたこの長野県に立ったならば誰もが実感できるでしょう。でも「確かさ」というのはなんでしょう。私たちの社会はコンピューターが確かに効率的な社会になりました。皆さんの中にはコンビニエンスストアで働いたことがある人がいるかもしれません。コンビニエンスストアでどんな商品がどのくらい売れたかは本部に瞬くうちにポスコードで伝わります。一緒にどんな商品を買ってくれたのかも伝わります。いくつくらいの年齢のどんなジェンダー(gender:性別)の人が買ったのかもわかります。けれどもその人がお店の中にどのくらい滞留していて、どの商品を見比べて最後その商品を取ってくれたのかというプロセス(process:過程、経過)はコンピューターの上では現されていないのです。効率主義の上での結果だけが現れているわけです。私たちはなぜ確かさを求めるのか。なぜ皆さんが、例えばボランティアの活動あるいはNPOの活動というものに関心があるのか。途中の経過というものが見えない社会になってるからです。話を戻すと、スワンのパンを届けたそうした障害者の人たちは自分が社会の中で人に尽くせる場所がある。あるいは自分がやってくることを待ってくれている人がいるということを実感するわけです。私たちの行政というものはある意味では県民から先に税金というお代をちょうだいする仕事です。大変に恵まれた仕事です。東京に住んでいれば、その福祉のサービスが異なれば世田谷区からむしろ福祉サービスが優れてる江戸川区へと賃貸住宅に住んでいる若い夫婦であるならば移り住むかもしれません。でもこの長野県の中においては、よほどの福祉サービスの格差がなければ、120の市町村に住んでる人はおそらく多くはそこでずっと暮らし続けるわけです。民間と違って競争というものがあるわけでもありません。そしてまた、繰り返しますが、皆さんの身分は犯罪を犯さない限り極めて恵まれているわけです。にもかかわらず、行政というものが今なお存在するのは、まさによいサービスをしてよい営業をしてはじめて後からお代が入る民間と違って、先にお代をちょうだいして、そこから私たちの生活費までもらう、恵まれた行政の場に私たちが尽くしているのは、それはまさにお金や時間では換算できないような、けれども人が確実に望んでいる「確かさ」というものを人に届ける私たちは尊い仕事に従事するということを天空の下で位置付けられているということです。そして、そのことは今申し上げたように、私たちはその人が人のお世話をすることによって、はじめて私たちの社会はお金や数字によってではなく、人の心と、人の体温というものがあってこそ、そしてその人たちの一人ひとりの顔がきちんと見え、その人たちが一列渋滞なわけではなく、おのおの自分の意思で立ちながらも、その緩やかな集合体として220万の大変に向上心にあふれる可能性に満ちた長野県というものが構成されているということです。その長野県において皆さんはまさに人が人に尽くすという大変に充実した喜びをこれから日々味わうことができるということです。
 私は冒頭で「長野県知事を務めております田中康夫でございます」と言いました。私は先ほど皆さんに、「獣医師として松本家畜保健所に勤務をお願いします」というようないい方をしました。長野県知事の田中康夫ですというふうに言った時に往々にして人々は勘違いし始めます。私には田中康夫というのはそれもまた一つのバーコードのように私を識別するものとして親なりが付けてくれたものであります。けれども長野県知事というのは私を識別するものであるかというと必ずしもそうとは限りません。長野県知事という言葉、もっと言えば、皆さんが例えば税務課の税務の徴収員という肩書があったとしても、その肩書には一つの権限が内包されています。ただ権限というものは権威であったり権力とは本来異なるものです。皆さんに与えられる公務員としての権限というものは、その権限を皆さんや皆さんの家族や皆さんに特別の要求をしてくる人のために行使するためにあるのではないのです。220万のまさにウィンドウズ型ではなくリナックス型としてこの広い県内の各地にいる、いつでも・どこでも・誰もが私たちの長野県の動きを知ることができ、発言することができ、そしてまた望めば参加することができる。そうした人々のための奉仕者として皆さんには権限が与えられているわけです。そして権限が与えられているということは権利なわけでは必ずしもなくて、ある意味では義務や権利という言葉をも超えた崇高なものです。それはその権限というものは、先ほど申し上げた、一人ひとりの顔が見える緩やかな集合体のさらなる着実なる幸せのために皆さんがそれぞれ自立した一人の人間として、自立した一人の人間がその皆さんと共に働く人々とユナイテッド・インディビジュアルズ(united:結ばれた/individual:個人)することによってその権限を行使する、すなわち皆さんが個々判断をする能力や勇気というものが求められるわけです。そしてまたその判断をしたことに対して責任を取るという気概や勇気もまた皆さんに求められるわけです。もちろん最終的な長野県という緩やかな集合体の最終責任者はこの私ですから、皆さんが行うすべてのことは、私は逃げ隠れすることではなくすべてを私が最終的には責任を取るわけですが、権限というのは、そのように物事を判断する能力、責任を取る勇気というものが必要です。そうした判断する能力や意欲や責任を取る勇気がないと、いつの間にか長野県の職員であるという、権限ではなくて自分のための権威としてその言葉を用いるようになってきてしまいます。そうなった時に、おそらく最初に申し上げた全体の奉仕者という言葉が実は公正な奉仕ではなく、自分たちの組織を維持したり、その組織にいる上司や同僚と共に心地よいために権限ならぬ権威を用いるようになっていってしまいます。それはサービスという単語の意味合いとは著しく異なるということです。そしてそうした意識を持っている人は、マックス・ウェーバーの『神の見えざる手』という言葉を引用するまでもなく、ステイクホルダー・エコノミーという市民がすべてそこに参加をして、市民がそれぞれ尽くす場所があり、尽くされる場所があるという言葉とは異なった非常に利己的な、あるいは組織至上主義な、あるいは非常に視野の狭い半ば独占禁止法違反のような形になるということです。
 そもそも行政体というのは長野県という行政体は一つしかありません。そして先ほど言ったように、四方を山で囲まれてますから、自由に住む場所を長野県以外の場所から、つまり埼玉県に今度は移り住んで東京の職場に通う、あるいは千葉の職場まで通うというような形の地政学とは異なる場所です。考えてみれば、長野県という行政体は、そもそもがその存在からして独占禁止法違反に抵触をするやもしれぬ存在だということです。が、優れてなお、それでも皆さんが全体の奉仕者であるということは、そこに皆さんがまさに権威のためではなく、市民を自立的に判断し行動するために権限を用いる。まさに謙虚な存在としての公僕。公僕というのは滅私奉公という意味ではありません。先ほどから繰り返しているように、一人ひとりの顔が見える、一人ひとりの人間の体温が感じられる、そうした社会をつくっていく。そして願わくば、その多くの自分の判断や行動が人の助けを借りずともできるような社会へと近づこうという究極の目標を持って日々人のために尽くすということを積み重ねるということが私たちに課せられているわけです。
 少し難しい話をしたように聞こえるかもしれませんが、最後にもう一点だけ申し上げると、私たちの社会は自由ということと民主ということはこれは本来相反する概念です。なぜか日本では自由という言葉と民主という言葉を二つ組み合わせた政治の集団が長きにわたって世の中をけん引してきたのか、混迷させてきたのかよくわかりませんが、なので自由と民主が同義語だと皆さんはあるいは思ってらっしゃるかもしれない。日本とアメリカの不幸というのは、アメリカもまた先ほど申し上げたように、先住民族やバッファローを大量殺りくしたことが自由と民主主義の獲得の歴史だと、小さな町の博物館に行くと公然と飾ってあるということです。自由と民主は明らかに異なります。どう異なるのでしょう。自由は人々が自由に物事を発したり、あるいは移動したりできるということです。ヨーロッパがEUが行おうとしてることは、昔はゲーテがお金持ちだけがパスポートなしでも馬車に揺られて来たイタリアのコモ湖のほとりまで旅行に行けました。今はEUの中にいったん入った人たちは、パスポートを見せずともかつてよりもはるかに安価なバスや飛行機や列車や車によって自由に行き来ができる。自由に発言ができるということです。これが自由です。では民主はなんでしょう。日本は日本中どこへ行ってもアルミサッシのツーバイフォーの家であったりします。どこでも皆、金太郎飴のような町並みになっています。例えばフランスに行けば、北のブルターニュと呼ばれるドーバー海峡のあたりに行けば石造りの建物です。アルザスと呼ばれるライン川のほとりのドイツと国境を接する場所に行けば木の建物です。そしてコートダジュールと呼ばれる地中海に面した地域に出掛ければ、そこはうす黄色のしっくいの壁であったりします。建物も風土によって異なります。食べ物も異なります。習慣も異なります。自由というのがボーダーレス(border less)だとすると、民主というのはある意味でいうとボーダーコンシャス(border conscious)、境界を自覚するということです。でもそれはいがみ合うということではありません。長野県で皆さんが働くことの意味は、長野県はある意味でいうと、EUの壮大な実験を一つの県において行いうる県だということです。長野県は多くの谷があり、そこにはそれぞれ少し異なるイントネーションの言葉があり、気質(かたぎ)も違えば食べ物も違います。家も南に出掛けたのと北に出掛けたのとでは違います。佐久とて群馬県の県境に近くなるとその農家の家は関東で見られるような造りであったりします。非常に長野県はその意味でいうと、各地域において地域性という民主が根付いてるということです。ボーダーコンシャスな県です。けっして南北の対立があるだけではなく、そもそもからして文化的にボーダーコンシャスな民主の県です。けれどもフランスが『ラ・マルセイエーズ』を皆が歌う時に、滅私奉公の国家主義というのとは違う意味で、個人主義の一人ひとりの意見を持ったフランスの人が『ラ・マルセイエーズ』を歌う時には民主に根ざした上での一体感の自由、ボーダーレスな社会を望んでいるのです。長野県もまた、お互いの地域で意見が違うといがみ合ってるかもしれませんが、皆さんの先輩が東京や大阪で同窓会をやる時に、いがみ合ってても『信濃の国』を歌うと皆涙を流して肩を組んでしまうように、その長野県は各地域の民主がありながら、長野県という緩やかな組織全体としては一つの統一感の自由というものがあるということです。つまり長野県は自由と民主が最初から同じ言葉なのではなくて、民主を一つ一つ独自にはぐくんできて、そして長野県という緩やかな集合体としてさらなる自由なる反映というものを望んでいる県でもあるということです。
 公僕として働く皆さんにとって、こんなにも他の自治体で働く人以上に、まさに自由と民主の相克を超えて人が人の喜びを感じ取れる日常をお給料をちょうだいしながら味わって人間として成長していける。こんなに公務員として働く喜びを確実に得られる自治体は、私は広い日本の中においても長野県をおいてそうそうはないのではないかと思います。長野県の職員であるということに多いに誇りを持つべきであります。と同時に、その誇りは常に手鏡に自分を映し出す謙虚な誇りであるべきです。それは自分と背丈が違ったり年齢が違うだけでなく、様々な思いを込めて今この瞬間も働き、学び、暮らしている県民のために私たちが尽くすことが、人が人として生きている確かな喜びを得ることだということを日々学習していくことです。ぜひ多く県内の現場で多くの県民と接し、老若男女を問わず、それらの県民から皆さんが多くのことを学び、まさに人に尽くす人として、よりしなやかでたくましい人間の体温を持った公務員として成長てくれることを願って、少し話が長くなりましたが、新たに皆さんを長野県の仲間として迎え入れるお祝いの言葉としたいと思います。
 どうもありがとうございます。

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