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最終更新日:2005年04月04日


「仕事始めの式」知事あいさつ(2005年1月4日)
音声(WMA形式00:29:19)


 「明けましておめでとうございます」という言葉は、常に枕詞としてあるのかもしれませんが、先ほど部長会議で申し上げましたが、今年は年末年始に、雪国信州ではありますが、多くの雪、あるいは地震も木曽地域等であり、土木部、農政部、林務部あるいは危機管理室を始めとする、また、各地方事務所や建設事務所の、多くの職員に、年末年始を問わず、出勤をしていただき、県民サービスに尽くしていただいたことを改めて感謝を申し上げたいと思います。無論、それは私どもの病院を始めとする、あるいは様々な社会福祉施設で勤務をする職員も同様であります。
 従いまして、無論、今日が「仕事始めの式」という名前がついておりますが、それはこの10階建の本庁舎に主として勤務する方々にとってはそのように感じるかもしれませんが、引き続き私たちは24時間365日ですね、県民のための奉仕者として働かせていただくということを改めて確認をするという場でありたいと思います。
どうぞ姿勢を楽にしてお聞きください。と言っても、お座りいただくわけにはいかないのは心苦しいところですが。
 私が就任をしてから、途中、出直しの知事選というものを経て4年が過ぎております。
様々な皆さんに言葉を、提示してきたと思います。
最初に「パブリック・サーヴァントだ、我々は」ということを申し上げました。これは通常「公僕」というふうに言われていました。公僕の公は「おおやけ」ということですから、「おおやけ」というのは日本はとかく行政機関や権力が「おおやけ」と思ってますが、「おおやけ」というのはひとり一人の市民の集合体です。
 で、「現場主義」というものを申し上げてきました。これはまあ、土木部や農政部を始めとする職員にとっては当たり前のことであったと思いますが、デスクワークをする者もですね、現場にこそ考えるヒントがあるということをお伝えをしてきました。
 「県民益」という言葉、これは「長野モデル」、「信州モデル」と並んでですね、県議会の方々にも多く用いられている言葉ですが、これは非常にある意味では逆に抽象的な言葉でもあります。それぞれにとってどのような県民益があるのか、どれが「長野モデル」なのか、ということは、実践を経る中でそれぞれが、より深く考えることだと思います。
その他にも「知性・勘性・温性」や、あるいは「演繹法」でなくて「帰納法」なんだと、あるいは私たちはフラットな社会を目指すのでピラミッド型でなく、BtoC、Business to Consumer、あるいはBusiness to Businessという形を目指そうということもお伝えをしてきました。
 あるいは、中には私は「お天道様の下では悪いことはしちゃいけない」というのが、私たちの唯一の心に常に抱くべき規範だということも申し上げてきましたし、おじいちゃんやおばあちゃんが「こんなことをして欲しい」と思ったり、あるいは小さなお子さんが「なんでこんなことやってんのかな」という疑問や希望にですね、私たちが胸を張って応えられるような、応えるというのは言葉で応えるだけではなくて、活動を通じて応えていくということができるようにしようということもお伝えしてきました。
 ただ、こうした言葉をお聞きになってもですね、今ひとつまだ理解をされない方々も中にはいらっしゃるかもしれません。
あるいは私は失敗を恐れず、まずは行動をして、そして行う中で不具合があればそれを朝令暮改で直そうというふうに申し上げましたが、朝令暮改ということを学校で習ったときにですね、何か朝令暮改というのは理念も覚悟も無く右顧左眄(うこさべん)をするというような意味じゃないかというふうに学んできた方にとっては、ある意味では時として戸惑う言葉であったかも知れません。
 今日は、毎年新年は、私は大して知識も経験も無い中で何がしかの人の考え方を引用しながら話をしますが、今日は、ヨゼフ・アロイス・シュンペーターという経済学者でありそして優れた社会理論家であった、19世紀の末から20世紀の半ばにかけて活躍をした人の言葉を、同じく経済哲学の日本における碩学である塩野谷祐一氏の本の中にも記されていることを引用しながら少しお話をしようと思います。
 ご存知のように、ヨゼフ・アロイス・シュンペーターはあのオーストリア・ハンガリー帝国というところで、今現在のチェコの場所で生まれてウイーンの場所で育ったわけです。
彼はこういうことを言っています。
 20世紀の前半に経済学は著しく精緻化、非常に細かく精巧なものになっていったけれども、それをもってしても経済社会の進化という大きな問題には依然歯が立たないでいると言っています。彼は1950年に亡くなっていますので、20世紀の前半に既にこういったことを述べているんですね。で、むしろ彼は経済学というものがどんどんどんどん専門領域化して精緻化されていったがために、ある意味では経済学が皆それぞれの専門領域の蛸壺的になってしまって、大きな社会が解決すべき問題というものに歯が立たなくなってしまったのではないかということを言ってます。その後に、カミソリというものはどんなに鋭利なものであっても、つまり優れた才能というものですね、非常に先鋭的なもの・・・でもこのカミソリがどんなに鋭利であっても大木を切り倒すことはできないんだと。大木を切り倒すには、逆にそうした精緻化という学問を究めた人からすればですね、まだ前近代的に一見見えるかも知れない、前科学的なものかもしれない、斧というものが必要なんだと言っています。
 ただこれは、斧が必要であるからかみそりが不要だと言っているわけではありませんし、今申し上げたように経済学がどんどん専門化し精緻化していくから、カミソリ的な経済学があればそれによって全て表されると言っているわけでもないということです。これは以前に皆さんに少しお話をしたかも知れませんが、暗黙知(あんもくち)という言葉があります。この暗黙知ということは、マイケル・ポランニーというイギリスの物理科学者であり哲学者であった人が言ったことです。どういうことかというと、私たちには第六感というものがある。これは決して神がかりなものではありません。例えば皆さんが私は自転車に乗れるよ、どうやって乗るんですかといったときに、もしかしたら図解で書くとまずサドルを持ってこっちのサドルも持つけれども、もしかしてそのとき足は上がっていたかな、上がってなかったかな、足が上がったときに、じゃあブレーキは踏んでたかな、踏まなかったかな、ここまでは映像を見ればもう一回説明できるかもしれませんが、私たちはでたらめに自転車に乗っているのではなくて、私たちが考える葦ですから、まさに意識しない暗黙の内に私たちは行動しています。でもそれは、私たちの今までの知識や経験に基づいているものなのです。あるいは、例えば皆さんがご自分の御家族あるいは同僚がどんな顔立ちの人かと聞かれたときに、毎日顔を見ているんですけれども、その顔を他人に説明することはとても難しいことなんですね。どんなに、あの人ここにホクロがあるよとか、あの人の髪の毛は白いよとか、鼻は少し丸いよとか高いよとか、そういう部分部分は、そういうディテールは言えるかも知れませんが、全体として皆さんが言葉として説明するのは難しくあります。けれども、絵に描くと全く瓜二つではなくても言えることもあるわけですね。ですから私たちが科学者というのも、アルキメデスもそうであるように、偉大な発見をした人もある時今まで蓄積されていた言葉や計量化できない暗黙知、まさにそれが私たちが述べている知識や経験を踏まえた知性です。でもそのときにそこで勘が働いて偉大な新しい科学の発見をすることができます。逆に科学的な知識や経験が全くない人は、どんなに勘が鋭い人であったとしてもアルキメデスのような発見はできないかも知れません。アルキメデスが大変偉大な人だったわけでは必ずしもなくて、皆さんには知識や経験を踏まえていろいろな引き出しを設けて行くことによって、未知のもの、あるいは全く新しい理論を産み出して行くことができるということですね。
 ところが今まで私たちの社会は、例えば18世紀から19世紀というのは社会科学というものがその地位を確立することによって、しがらみだとかあるいはそうした古い権威とか、あるいはもちろん宗教というものは大事なものですが、宗教至上主義であったり、そうしたものから私たちが独立して社会の営みや判断をするようになってきた期間だと思います。けれども、20世紀になるとこうした社会科学というものが、論理実証主義という言葉があります、こうしたものになってきてしまったんですね。論理実証主義というのは何かというと、宗教や倫理について語ることは無意味であって、きちんと数値化できる、あるいは目に見える自然科学の命題というものが事実と照らし合わせてきちんと説明できるかどうか、そうした自然科学によって正しいか正しくないか判断されていくのだという考え方です。
 経済の世界でも、ジョン・メナード・ケインズをあまり正しく理解しなかった人たちがそのように陥っているように、数値至上主義、あるいは正しいか正しくないか、やるのかやらないのか、といった○×的な考え方で社会をとらえるようになってしまいました。つまり、18世紀や19世紀に人間がいろいろなしがらみから自由に頭脳を使って考えようとしたにもかかわらず、20世紀の半ばから後半になってくると、むしろそのように言葉できちんと説明できるものでないと、行うには値しないというふうに捕らえられるようになってしまったんですね。でも考えてみてください。例えば先ほども県警本部長が新年の部長会議の場で年末年始の交通事故の発生や、昨年の治安の状況を語りました。治安ということ、あるいは福祉ということ、あるいは教育であったり環境であったり、こうしたものは私たちは必ずしも言葉や数字によって表しきれない社会かもしれません。皆さんがもう少し治安がいいほうがいいな。あるいはもっとコモンズが温かみがあるほうがいいな。あるいはもっとおじいちゃん、おばあちゃんが遇される社会がいいな。小さな子どもたちの欲求と創造的な欲求というものに答えられる教育がいいな。あるいは、緑がきちんとあったり、清らかな水が流れていたり、田園風景が原風景として残っている方がいいな。こうした暗黙知の世界でなんですね。こうした暗黙知の世界を、私たちの行政というものは今までもそうですし、これからより鋭く私たちが認識して、私たちが県民と一緒に歩んでいかなければいけない世界ではないか、という気が私はしています。
 シュンペーターは、社会を捕らえる側面として、歴史や理論や政策というものが存在するんだと言っております。ヨゼフ・アロイス・シュンペーターの考え方は、今申し上げたような、実証主義や論理実証主義的な20世紀の思想の流れ、思想というより思潮の流れ、オモウという字にウシオと書く思潮に対する批判であります。彼は、どういうことを言ったかというと、歴史と理論と政策と、この中で歴史に関して彼は、短期的なものよりも長期的な視点というものを重視しようじゃないかと言っております。目先の取り繕いだけでは私たちは進化しないということを言っているんですね。彼は理論というものも、一つひとつの社会現象を孤立的、つまりそれぞれの社会現象を単独的に捕らえないで、それをまさに私たちの暗黙知、考える葦である脳を使って、良い意味で総合的、総合的というのは、満遍のないとか当り障りのない、という意味ではありません。私は皆さんにディテールから変革ということを述べて来ていますが、ディテールからの変革というのは、そのことを単独で捕らえるのではなくて、他の部の仕事、あるいは他の地域、あるいは他の領域では、同様の改革ができないかな、同様のミスを少なくするにはどうしたら良いだろうか、ということを考えることが、孤立的にあるいは単独的に捕らえるのではなくて、良い意味で俯瞰的(ふかんてき)に、総合的に捕らえるということです。彼は、もう一つ政策に関して、人間は社会を計画して制御しきれるなどと思い上がるのではなく、むしろ社会自身、社会は無論、人によって、あるいは自然環境によって、私たちの社会的共通資本によって成り立っておりますが、社会自身は有為変転していくのであって、社会自身の変化の過程をきちんと知っていくことが、何よりも政策を産み出す上で大事だと言っています。つまり、何か私たちが社会を計画を立てて、その計画によってすべて制御できるなどと思い上がるのではないということです。ただし、無論、私達が目標を設定したり計画を立てることは大切です。私が朝令暮改を良い意味で取り入れようと言っているのは、その点において活きてくるということです。ですから、彼は短期的であったり、孤立的や単独的であったり、あるいは計画至上主義的な見方ではなくて、長期的に総合的に、そして進化的というのは相対主義的にですね、こうした見方を取り入れていかないといけないと言っています。こうした中で、彼は科学というものがどんどん理論的に精緻化を図っていってしまえばしまうほど、逆に蛸壺化してしまうので、科学が本来持っているべき良い意味での冒険心、探究心といった非常に美しい部分が失われてしまうのではないかということを言っています。これは、私達が今後仕事をしていく上で、私はとても重要な点ではないかという気がしています。シュンペーターは先ほど言ったように大木には斧が必要だし、新しく社会を切り拓いていくには鋭利なカミソリも必要だと言っているわけです。彼が言う暗黙知があるのだというのは、だからといって言葉にできない、数量化できないからというふうに私達が説明責任を逃れるという意味では断じてないわけです。ただ、彼が言っている暗黙知は、まさに数値化や言語化ということさえ行えば、説明責任を果たしたということでもないと言っています。すなわち形骸化した説明、形骸化した手続きというのは、私達の本来、脳が進化していく暗黙知というものを置き去りにした単なる○×主義になっていってはしまわないかということです。多くの県民の願いということは決して文学的にたゆたう思いではなく、その二元論の間にあるものなわけです。それが暗黙知だと私は思います。他方でこのシュンペーターは先日部長会議でもお配りしましたけれど、「経済発展の理論」という中で非常に面白いことを言っていて、それは知識や経験を越えた、勘性、勘所の鋭さというものが必要だと言っているんですね。視界の鋭さや良い意味での偏狭さ、あるいは良い意味での独立独歩の能力との結びつきは、ますます重要性を増してくる。そして、こうした海図のない社会を解決していくことができる人たちは、他のあらゆる面では社会的には賢明でなければいけない、分別がなければいけないと思われていることが必ずしも満たされていなかったり、そういうことがあってもなお、あるいは教養という本来、皆が等しく基本的には持っているであろうものも、持っていなくても、それをもってその人が優れてないということにはならないと言っています。つまり、シュンペーターが言っていることは、私たちがよく専門バカというような言葉を使います。でもシュンペーターは良い意味でその専門バカという言葉を越えた非常に鋭いその人の特異性あるいはその人の独立独歩であったり、勘所の鋭さというものは必要なんだというふうに言っているわけです。私たちの県は、仕事納めの時にも申し上げましたが、公債費負担比率や起債制限比率はワースト2でありました。むろん、その厳しい状況は変わりませんが、しかしながら、財政改革推進プログラムを皆さんや県民の方々の理解と協力の上で進める中で、平成13年度から14年度には2億1400万円借金を減らすことができました。平成14年度から15年度に至っては178億2800万円の借金を減らすことができました。それがどうしたとおっしゃる方もいるかもしれません。ただ、これは私たちは決して自慢をするのではなく、全国の47都道府県の中で唯一借金の額が減ったという県です。けれども、多くの財政改革チームのみならず、多くの職員の協力を得て、私達は決して必ずしも緊縮財政なわけではではなくて、環境であったり、教育であったり、福祉であったり、まさに暗黙知の世界で多くの人が身の程知らずに望んでいるのではなく、身の丈を知りながらも同じ県民として確かさを得るために望んでいることに予算を傾注投資するようにしてきました。治安ということに関しても、来年度の予算において、よりこうした面を限られた財政の中でも図らなくてはいけないと思っています。これは、当たり前のことです。行政の常識は民間の非常識などというような二元論的な言葉をよく言う人がいますが、皆さんの協力を得て行えたこと、それは単に借金の額を減らしたということではなく、私たちが身の丈を知った上で、当たり前の真っ当なことができるような行政体であろうということを皆さんの協力を得て行ってきたことだと思います。ぜひ、この点に関して自信を持っていただきたいと思います。そして、誇りを改めて抱いていただきたいと思います。こうした誇りや自信の中において、私達はまさにおじいちゃん、おばあちゃんが望んでいること、小さなお子さんたちが望んでいること、それらを新たに始め、更に充実させ、あるいは、さらにそれを組み立て直すということを行っていけるのだと思います。「報・連・相」ということを、もう一度最後に確認しておきたいと思います。報告、連絡、相談ということです。これは完璧を最初から求めてはいけないということです。無論、完璧というか、より良い意味で袋小路ではない精度を高めていく。精度とは充実をさせていくということです。先ほどシュンペーターが言っていたような経済学の理論の精度を高めるということではない意味においてです。私達は最初から完璧を求めずとも、まず皆が願うことを踏み出してみようということは、無謬性(むびゅうせい)からの脱却ということです。私たちはとかく誰からも批判されない、誰からも咎(とが)められないということが確認できてから行おうとしていますが、しかしながらこれだけ大きな時代の変動の中において、そのようなものはもはや存在しえないのかも知れないのです。ですから、8割方皆さんが悩んで決めるのではなく、常に同僚や上司と「報・連・相」していただきたい。それは私に対してもです。責任は常に私が最終的にとるということです。しかしながら、少し甘えた言い方に聞こえるかもしれませんが、それは何でも知事任せにすればよいということでは断じてありません。皆さんにはそれぞれの権限があります。権限を県民のために行使するために、皆さんにはそれぞれの肩書やあるいはそれぞれの所掌範囲というものが付与されているわけです。的確な認識や迅速な行動や明確な責任を持っていこうということはそうした意味です。それは同時に屈しないということです。多く市民運動家の人たちというのは権力の外にあって、権力を批判し続けるということの一点にあっては屈しない人達が多くいます。しかしながら、そうした人たちがひとたび権力、あるいは市民運動というものもいつの間にかフラットなものではなく連合体になったときにゆるやかな丘陵かもしれません、ピラミッドにはなっていなくても、そこには人が多く集えば、様々な担当部署が生まれてきます。その時に、往々にして自分に類が及びそうになると逃げてしまう人がいます。屈しない人というのは同時に逃げない人であるという可能性は、残念ながら私たちの、私も含めて凡人の集合体である社会においては極めて少ないかもしれません。
 でも屈しないだけでなく、私たちは逃げない人の集合体として県民へのサービスをするということを再度確認したいと思います。年末に田中真紀子女史の長いインタビューがある雑誌に載っていました。田中真紀子女史の言っている中で私が面白いと思ったのは、組織に入ると男の人は、これは政治家、国会議員のことを語っているんですが、組織に入ると男の人はグループを作って群れてしまう。安全保障や憲法判断等日頃は自分の意見はこうだと明確に述べている議員でも、いざ最終段階になると、党や派閥の総意なりボスの方針を持ち出してくるんです。そうやって自分の意見を捨ててしまう人が極めて多いということを言っています。ジェンダーの問題ではなく、私は誤解を恐れず、敬意を表して申し上げれば、やはり私たちが持ち続けるのは、よい意味でのオバさん感覚であると思うんですね。オバさん感覚であるというのは、居直りましょうと言うのではありません。いま田中真紀子女史の発言を引用したように、私たちは一人ひとりを持っていてもいつの間にか組織を背負ってしまうと、違う自分になってしまう。違う自分のつつがない意見を、当り障りのない意見を言ってしまうことがあります。でもこれはシュンペーターが言うように、短期的な解決でしかなく、長期的な視野に立っているものではないということです。オバさん感覚というものをよい意味で私が申し上げているのは、それはやはり私たちが知識や経験は、知識というか社会の生活の意味での知識は、多くオバさんは持っています。経験も持っています。そしてその中で子育てや様々な家事や社会の地域の活動もしながら、勘所もあるいは隣人を思いやる温性も、人一倍研ぎ澄まされていっているということです。そしてそれのよって立っている所は、必ずしも数字や言語で当初から明確に説明できるわけではない、極めて暗黙知の領域によって立っているということです。そのことをもう一度確認しておきたいと思います。私たちのいくつかの課がチームというふうになったのも、それはそれぞれの専門領域が専門領域で終わらない、専門領域、先程言ったような視野の鋭さや偏狭さや独立独歩の能力とシュンペーターが高く評価した、そうした専門性というものを、同時に総合的に俯瞰的に活用できるためにチームという言い方になったということです。つまり、「シマ」というような蛸壺ではなく、同じチームが皆で共に手を取り合って活動していく。それは、小さな集落がコモンズであり、市町村もコモンズであり、あるいは本県もコモンズです。各4地域もコモンズですし、もしかすれば日本全体も、世界全体もそれはコモンズです。ただ、その最初に成り立っているところは、人と人の顔や体温や息づかいや悲しみや喜びや憤りを共有できる小さな集合体から始まるということです。チームというものもコモンズというものも、その意味では、まさに縦ではなくて、横に重層的によい意味で連なっていくものだと思います。グループという言い方は、私の五感の中では、どうしてもグループだけ、つまり組的な発想です。チームというのは横に広がりを持ったもので、であるからしてグループワークというものではなくてチームワークという言葉が、私たちが手に手を取り合って活動していく上で極めて大事だという言葉として認識されているのも、その点にあるのではないかと思います。大変に長いお話になりました。今申し上げたように、この暗黙知というもの、それをきちんと私たちは誇りを持って持つ必要があると思います。私たちが多くの改革を、財政だけでなく公共事業あるいは福祉や教育の改革をやってきたのも、数値に基づいたことから発想したのではなく、まさに皆さんが一人の人間として同様の気持ちを持ったから、暗黙知の中から生まれてきたのだと思います。暗黙知は、暗いという字に、黙するという字に、知識の知という字です。繰り返しますが、県民への奉仕者としての誇りと自身を持って、今年もまた皆さんと共に歩んでまいりたいと思います。どうぞよろしくお願いをいたします。そしてこの瞬間も、県民のサービスの現場で、実際に働いている多くの職員にも心から感謝申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。

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