Web Site 信州
トップページ戻る目的でさがす分野でさがす組織でさがすサイトマップ使い方ガイド
知事コーナーのトップへ  知事発言のトップへ
最終更新日:2004年04月01日

 

新規採用職員任用式における知事訓示

(2004年4月1日)


 ただいま、教育委員会に配属の薄さやかさんを除く他の方々に辞令を交付させていただきました。この日本列島の背骨に位置し、あまたの水源を要する信州・長野県の知事を務めております私、田中康夫です。先ほど握手させていただいたときに、私は右手のアトピーが、このところ大分悪化しておりまして、あるいは握手をされたときに少しザラザラしていたので皆さんの繊細な肌が傷んでしまったのではないかと、少し気にかけております。

 先ほど太田ちひろさんのご挨拶の中に、地方自治法の本旨に則りというところがありました。地方自治という言葉がありますけれども、地方自治に対して中央自治という言葉があるかどうか、私はあまり法律に詳しくありませんので分かりませんが、私たちはある意味で地方政府なのですね。そして国という言葉をよく使いますが、これは便宜的にもし置き換えるとすると、中央政府というような形であろうかと思います。もう一つ、「公共」という言葉があります。皆さんは今日からまさに地方公務員、公の事務を扱う職員と。まさにこれは英語で言いますと、パブリックサーバントという言い方があります。このパブリック、公共というものはどういうものなのかということです。皆さんは公共という言葉を使うと、公共交通機関とか、あるいは公共事業とか、こうした言葉を思い浮かべると思うんですね。公共交通機関は、バスを運行しているのは私企業の方が多いかもしれませんが、公共事業というのは市町村であったり、都道府県であったり、国であったり、あるいは民営化するだのしないだのと言われている多くの特殊法人と呼ばれるところが行なっていることにとらわれがちです。ただ、この公共というのは決して税金を執行する人、公務員であったり、あるいはそれを決める政治家であったり、こうしたものが公共ではありません。公共というのは何かというと、一人ひとりの社会に参加している人々、そうした人々の緩やかな集合体がパブリック、公共ということです。パブリックというのは決して役人の世界であったり、政治家の世界であったりがパブリックではないんです。ところが往々にして私たちの社会は、先ほど民主的にというような言葉もあったかもしれませんが、その民主的な社会の公共ということは、役人や官僚や政治家が行うというように勘違いしないことです。

 既にご覧になっているかと思いますが、「コモンズから始まる信州ルネッサンス革命」という、このタイトルのもとに記されたものが、私たち本県が今後目指していくべき、また既に行動し始めている内容であります。この「コモンズ」というのは、漢字に置き換えると「集落」というような言葉になるわけですね。そしてその集落を構成しているのは、その一部の集落の長を務めている人であったり、あるいは年齢が上の人であったり、あるいは声が大きい人であったりということではありません。老若男女、まさにそこに集まり、集っている人々がコモンズを構成していて、また、そうした人々の集合体が公共であります。では、公共が公共らしくしていくときにどうしたことが必要かというと、これはまさにいろいろな地方自治法をはじめとする法律があるかもしれませんが、でも、ぜひ皆さんに深く認識していただきたいのは、法律や条例は誰のためにあるのかということです。法律や条例は、その公共の、集合している一人ひとりの個人をより幸せにする、…それは物質的とか精神的とかいう言葉を超えて…、より深い幸せを与えるために法律や条例はあるはずなんですね。ところが、私たちは外郭団体の見直しということも、ヤマト運輸の中興の祖でありヤマト福祉財団の理事長である小倉昌男氏を中心として昨年末に整えましたが、往々にして、組織を維持するためであったり、既に昔から続いている事業を維持するために法律や条例が、あるいはもっと言えば、法律を法律として維持するために新たな法律や条例ができてくるというような社会にとかくなりがちです。そうするとこれは、人というものがそこに存在しなくなっちゃうんですね。

 先程、地方自治の精神というものに則ってということがありましたが、では地方自治の精神とは何かというと、平たく申し上げると、皆さんが小さいころにおじいちゃんやおばあちゃんが、お天道様の下じゃ悪いことをしちゃいけませんよというようなことを言ったと思うんですね。何か分かったようでいて、分からないという人がいます。お天道様のもとでは悪いことをしちゃいけないなんて、そんな抽象的なことを言われても分からない。もっと事細かに、していいことと、していけないことを書いてくれないと困るんだよというようなことを言う人がいますが、そうではないんですね。私たちの一人ひとりの体の中に、温度調節器、体温調節器、サーモスタッドを持って、こうしたことは自分のためではなくて、自分も含めたより多くの公共に集まる人々の為になると思うこと、そしてまた、為にならないと思うことを改善していくということです。即ちそこには確たる皆さんの、よい意味での自己というものを見つめる目がないといけません。往々にして大人になってくると、そうしたお天道様の下じゃ悪いことをしちゃいけないというルールだけでは足りないんじゃないかと思いがちになってしまいます。でも私たちは、やはりお年を召したおじいちゃんやおばあちゃんや、あるいは小さなお子さんが、何で世の中はこんなことをやってるの? 何で長野県はこんなことをやってるの? あるいは、もっとこんなことをやってくれたらいいのになあと言われた時に、おそらく皆さんも、公務員になると聞いて、みんなが祝福、…祝福してくれたと仮定してですね…、祝福してくれた時に、でもあんたが公務員になったらこういうことをやめてほしいなあ、こういうことはもっとやってほしいなと言われたんじゃないかと思うんです。おそらくその時には皆さんは、いやいや私はまだそのような身分になっていないから、貴重なご意見ありがとう、聞いておくよと言ったかもしれません。皆さんも公務員である前に一人の人間として、やはりここはもっと変えた方がいいなと思うこと、あるいはこういうことを行なったらいいなと思うことを考えたならば、ぜひ臆せず述べてほしいということです。中にはそんなものは前例にはないというような人もいるかもしれません。今まではみんなが全国一律、前例に則って行えば、右肩上がりの成長という大前提のもとにつつがない歩みができたかもしれません。でも、これから私たちは海図のない時代を生きていくわけです。

 では、海図のない時代を生きていくときに、パブリックサーバントとしての私たちはどうあるべきであるのか。私は県知事になる前につたない文章を書いたり、…今も書いていますが…、同時に、今からもう10年近く前になる阪神淡路大震災に半年ほど、地震の4日後に大坂で買い求めたバイクに乗って、テント村や避難所や、あるいは仮設住宅の方々のところを廻って、最初は物質的な、そしてついにはお話し相手をするという精神的な活動をさせていただいたことがあります。そのときにとても印象に残っていることがあります。例えば多くの避難所というのは小学校や中学校でありました。ここで小学校の先生や校長先生や用務の仕事をしている人たちが、避難してきた人たちのお世話をしたんですね。でも神戸で地震が起きるなどとは誰も、…思っていた人もいるかもしれませんが…、ほとんどの人が思っていなかった。そしてそういう人たちは、そのような非常事態が起きた時に、どのように避難してきた人たちと接すればよいかなどということは何も決まっていなかったんですね。でも、何も決まっていなかったけれども、皆はそれぞれその時に自分で考えたわけですね。採用式の時に失礼な言い方になると思う方もいるかもしれませんが、これはまさに人間の生活でして、例えば水もでない、電気もない、トイレも流すことができない。すると避難をしてきた、いつもは大変に着飾った女性の人も学校の先生も一緒になって校庭に穴を掘って、そこに排泄物を埋めるということをしたわけですね。誰かが命じたわけではありません。決してガールスカウトやボーイスカウトに入っていたわけでもありません。そして30階建の市役所から命令が来たわけでもありません。誰もが人として体で、そして体の後にほぼ同時に頭を使って、誰からともなく恐らく穴を掘ってたんですね。2日目になって、おにぎりが1人半分か一個ぐらい来るようになります。3日目になるとお弁当が来るようになります。3日目になると電気が点くようになりました。当時は携帯電話がさほど発達していなかったので、3日目になると30階建の市役所にも電話がつながるようになります。するとそのとたんに、誰もがそこで30階建の市役所に指示を仰いでから避難所における活動をするようになってしまうんですね。そして30階建の市役所の人たちは、恐らく一生懸命会議をしたのかもしれませんし、どこかに眠っていたマニュアルというものを引っ張り出してきて、このようにしなさいと指示をしたかもしれません。でも極論すれば、芦屋市側の東灘区と明石市側の長田区では、老人や子供の構成率、独居の人の構成率も違いますし、避難の状況も違ったわけです。あるいは避難所の人数も違ったわけです。一律に伝えることが適合できるとは限りません。しかしながら、従順であった公僕と呼ばれる人たちは、30階建の建物から指示を受けたことをそのままやっていくということです。

 私は別に、指示があったことにことごとく逆らいなさいとか、皆さんがこれからそれぞれの現場において無手勝流に好き放題やりなさいと申し上げるのではありません。私たちはどんなにか座学において学習をしても、ましてやそれがWHYとかHOWを考えることを意識的に忘れさせるような、4 Wの部分でのマニュアル的な訓練を皆さんが受けたとしても、最終的に行うのは皆さんの嗅覚であるということです。皆さんの勘所であるということです。しかしながら勘所を養うには、幾ばくかの知識や経験がないとだめです。例えば中里柿右衛門の一族の中里隆という人のところに、仮に壷をつくりたいと思って入った人にとって、最初はその壷を作る土の合わせ方、上薬の塗り方というのは、おそらくはどこかに書いてある知識です。あるいはお尻をたたかれながら、ろくろの回し方を失敗しながら覚えるのは皆さんの経験です。けれども師匠を乗り越えるためには、そこにそうした知識と経験、…これを私は「智性」と呼んでいますが…、その師匠を乗り越えるためには、皆さんに感覚ではなくて勘所がないとだめです。例えば上薬を最後に塗るのも、ここでもう1回こういう刷毛の使い方をしたらどうだろうとか、あるいはここに少しこういう窪みを付けたらもっとこの壷は持ちやすくなるんではないだろうかとか、これは必ずしも論理ではありません。ただ、これが閃くのではなくて、皆さんの知識や経験を積み重ねるというよりも、知識や経験の上に生まれてくる勘であります。しかしながら、皆さんはまだ私よりも大変お若い方々でして、あるいは皆さんのそうした勘を気づかない同僚や上司がいたときに、それを伝える時に人間の体温が必要であります。

 決して私は欧米の社会が必ずしもすべて優れていると申しませんが、例えば今日は看護師の方々がいらっしゃいます。病院で回診するときに、往々にして欧米の病院においては毎朝回診のときにベッドの高さまで医師が下りて、「どうですかブラウンさん、今日の具合は」というようなことを聞きます。むろん日本よりも担当する患者の数が少ないから、そういうことができるのだというふうに言う人もいます。けれどもこれは、もっとスタッフが増えれば、もっと施設が充実すればできるのかというと、まさにそこに人間の体温がその人にないとできません。同じ目線で語られれば、か弱き人もほんのちょっぴりだけおなかが痛くても、今日はまだここのお腹が少し痛いと言えます。往々にして日本の病院は、後ろに多くの医師やコメディカル(comedical:医師・看護婦以外の医療従事者)な人を連れて歩いて来て、「今日はどうですか、山田さん」というので、とっても痛ければ言えますけれども、ちょっぴりだけ痛いと、「いや、先生、ずいぶん良くなりました」と言ってしまっているんですね。これではせっかくの知識や勘所を持った人でも、同じ目線で語らないと次の人に伝えることができません。それは、まだ気づかぬ同僚や後輩に伝えることができないのと同じことです。でもベッドに寝ている人は、私はベッドに横たわっている人なんだから相手がかがんでくれて当然と思っていたのでは、その人は向上することができません。ベッドに寝ている人も、今日は少し具合がいいので自分が回診のときに起き上がって、相手と同じ目線に近づいて話をしようという意欲がなければ、これは行政がしてくれることを何でもして、もらえるだけもらっておこうという形と同じで、これは結果として大きな税金、大きな政府になっていってしまいます。

 こういうお話しをすると往々にして皆さんの先輩の中には、知事は現場の実情を知らない、知事が就任する前には、医療に関してはベッドも昔からの木製のベッドのままで電動式になっていないから、患者さんがベッドで上半身を起こすなんてそんな大変なことを一方的に言っちゃいけませんなどというようにおっしゃった方がいます。皆さん緊張しているので笑いが出ませんけれども、私が申し上げてるのは、ベッドが電動式ではないから起きるのが大変だろうということではありません。それぞれの側が、皆さんもまたひとりの県民です。奉仕すると同時に、皆さんもまた県民として奉仕を受ける側でもあります。そして受ける側ということだけじゃなくて、…NPO室に配属が決まった人もいるように…、誰もが地域社会の一員としてできることをできる限り、できる範囲で行なっていくということです。相互が同じ体温や同じ目線を持とうという気持ちを持つこと、それが私は体温の温という字を書いて「温性」と述べています。

 先ほど阪神淡路大震災の話をしました。往々にしてテント村や避難所や仮設住宅に住んでいる人たちは、地震が起きた時に行政や警察は私たちの期待に必ずしも応えてくれなかったのではないかということを述べました。皆さんの恐らく先輩も、先程申し上げたように、これは前例がない、これは国の規定がない、国の規定はこのようになっているからできないというようなことをおっしゃるかもしれない。往々にして行政や警察は、市民にこうしなさいとか、これはしてはいけませんということを言いがちです。今日は危機管理室をはじめとする消防や救急に配属された人はいませんが、少なくとも病院の方々は広い意味での私たちの危機管理の範疇に入ります。消防隊員や救急隊員に関してのあからさまな批判というのは、私が半年ほどそうした地域で活動した中で聞いた記憶がほとんどありません。それはなぜでしょう。消防や救急の人たちは無論、私たちの民主的な社会の一員であるその上において、人としてすべきこと、できることということを無意識のうちに考えているということです。先ほど東灘区で、着飾っていたであろう女性と学校の先生が一緒に、汚物を埋めるための穴を掘ったと言いました。東灘区は直下型の地震が来て、その場で建物がほとんど倒壊したので、圧死をした方が亡くなった方の中ではほとんどです。他方で長田区というところは、建物がペシャンコになったというケースは比較的少ない。地震が起きた瞬間に、朝5時46分、47分、48分で、ご主人はいち早く外に飛び出したけれども、台所の朝の用意をしていた奥さんは火を止めて出るまでに少し時間がかかってしまって、家の中に閉じ込められてしまう。こうしたケースが多くありました。けれども木造の家だと土の壁は全部剥れて、中に奥さんが生きていることは確認できる。手を伸ばせば握手もできる。声をかけることもできる。けれどもノコギリがない。仮に電動ノコギリがあって電気がつながったとしても、柱を切ることで逆に家が倒れてしまうかもしれない。救い出すことができない。消防団や消防隊の人たちも来るけど、なす術がない。するとそのうちに風向きが変わって火が押し寄せて来る。川からホースを延ばして水をと思っても、管が足りなかったり、あるいは消火栓をと思っても、消火栓がことごとく壊れているという光景が少なくともあったわけです。そして最後、そうした時に、まさに外に出ていた側のご主人が気も狂わんばかりになっているときに、そうした奥さんが、ご主人と一緒に無事であったお子さんや年老いたおばあちゃんやおじいちゃんをきちんを看てくださいと言って、火の中に巻き込まれるという形がありました。その時に、まさに消防隊や消防団の人も、民主的な社会の中において法というものを乗り越えて、つまり人がすべきこと、人がすべきでないことということを、必死に努力しようとしていたということです。ある意味では、そこには共通の人知を超えた、けれども人知を超えたといってあきらめきれない無念さがあるということです。

 皆さんは60歳まで、おそらくは身分が保障され、この組織は雲散霧消することもないであろうという前提の下に公務員になられています。この組織が雲散霧消する時は、ある意味では日本という社会が雲散霧消してしまうときかもしれません。けれども、これから起こり得ないとも限りません。ただ、皆さんの身分が安定をしているのは何かといえば、皆さんの幸せのために身分が安定しているのではありません。皆さんがまさにパブリックな場所に集った人々のための真の奉仕者として、より高い志で、そしてよりきめ細かい気配りで奉仕ができるために、皆さんにそうした身分が今日から付与されたわけです。ぜひ私たちのこの全国4番目の広さを誇る、そして南北に大変広い県土には、多くの向上心にあふれた老若男女が、今この瞬間も暮らし、働き、学び、あるいは、か弱き者の手助けをしています。常にそうした人々のためにこそ、皆さんの今日からの身分、そしてそれに付与されたさまざまな権限というものがあるのだということを、時折深く自覚していただきたいと思います。…と申し上げても、おそらく最初は日々の覚えるべきことに忙殺されるかもしれません。でも、ぜひ与えられたマニュアル的な教本にとどまることなく、一人の県民として、もっとこうしたらいいのに、もっとここは変えたほうがいいのにと思うことを述べるという勇気を、挫折することなく持ち続けていただきたいと思います。そしてそれは皆さんの同僚や直属の上司だけでなく、ぜひ私のもとにも伝えていただきたいということです。常に皆さんの改善すべきヒントは、人と接するところにこそあるはずです。多くの県民の方々と、あるいはこの本県を訪れる方々と接する中で感じられた改善すべきことというものを私にもお伝えいただき、そして多くの方々が、国内外の方々が注目するこの日本列島の背骨に位置する本県、信州・長野県の改革というものが、より自律した個人の方々に福音をもたらすものであるように、その大きな活動の一員として、今日この瞬間から活動していただける、そうした仲間として皆さんを迎え入れたことを、県知事を務めている私として大変うれしく思っております。

 決して足をそんなに突っ張ることはありません。緊張して足を突っ張っていると、後ろからひざを押されるとガクッと崩れてしまいます。これは学級会の時の真面目な学級委員がそうであっても、少しひざの部分に遊びを持たせるいたずら坊主は膝のところを押されても、柔構造の耐震構造のように揺れても倒れることはありません。私たちは人と話をしても100%は理解できないからこそ、理解するために話をし、そして人と日々接するのだと思います。そうした一人ひとりの力は限りあるけれども、一人ひとりには尊い、まさに魂というものがあると。そうした方々に奉仕をし、尽くせる喜びを日々自覚なさり、そしてその喜びがより多くの人に広がるように精励していただきたいと思います。

 私たちは県民のためにサーヴィスするということでは対等です。たまさか私たちには、さまざまな部長というような肩書きがついています。そしてそれを行うためのさまざまな権限があります。皆さんには明日から、名札をお渡し申し上げると思います。ここには皆さんの写真と、…もし気に食わない写真がついていれば交換することは可能です。それは気持ちよく仕事をするために、基本的にとても大事なことです。そしてフルネームで書いてあります。私たちの職員(部局長)も皆、今、自分の名字と名前と両方申し上げました。名字だけで県民の方に接するというときには、それは実は、大きな組織の中の匿名性に守られた形になりがちです。私たちはそれぞれ皆さんが1年生の職員であっても、皆さんがその時に、もちろん同僚や上司と相談しながらも、皆さんの責任において県民と接してお話しをさせていただき、助言をしたり、あるいはお伝えをするということです。ぜひ、日々まさに県の職員である前に、ひとりの県民であるフルネームの皆さんとして仕事をするということを自覚していただければと思います。多くの職員が、皆さんにおめでとうございますと言いました。おめでとうございますというのは皆さんのためだけではありません。皆さんの家族のためや、愛する恋人のためだけでもありません。県民のためにこのように意欲を持って奉仕してくれる人を迎えられたということに対して、私たちもおめでたいことだと申し上げたわけです。どうぞ意欲を持って、そして大きな夢を持って、そして夢を実現するためには、同僚や上司にも皆さんが思っていることを語り、語るだけでなくて共に行動する職員であっていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

 

<お問い合わせ先>
■ このページに関するご質問及びご意見は、経営戦略局までメールもしくは下記にご連絡ください。

秘書広報チーム
Tel 026-232-2002
/ Fax 026-235-6232

トップページ | 県からのお知らせ | くらしの情報 | 産業・経済の情報 | 県行政の情報  | 県内各地の情報 | リンク集
▲ このページのトップへ